ボンダイ(ボンK日報)

あれやこれや

今の日本の合理性感覚は異常だ

2005年の秋葉系がちやほやされていた頃、「田舎を走る公営鉄道」と言う風貌が日本社会に衝撃を与えていた。鉄道とは民営で田舎の交通は自動車だという既存の常識に一石を投じるスタイルだった。バブル崩壊後の平成時代に都会になった最初の世代をいい意味で象徴していた。

戦後高度成長期からバブル絶頂にかけ、昭和の日本の鉄道を象徴したのが私鉄、田舎を象徴するのが車社会だったが、こんなスタイルは世界的に見れば一部の地域の一部の街区に限られている。欧米に限らない。同じアジアでも、韓国や中国の通勤鉄道は公営が普通だ。

しかし、2010年代現在、2chの全盛期に子どもで、最近大人になった今の若者は、最近のバイクを乗りこなす高校生のように車社会に従順しているのである。本来古い常識と最も遠いはずの10代~30代ですらこれである。彼らはこの常識をそのまま定年後孫の世代に引き継ぐのか。

今の日本は非合理性を無理してでも守るという悪癖に陥りすぎている。かつては価値や意味を持っていたが実質的になんら中身を失ったもの、あるいは手間や有害性でしかないものを、それを知ってか知らずか、無理してでも守ろうとするソビエトの末期状態のような癖がそこかしこにみられるのだ。

 

その裏で、急激な変化が起きているのもまた事実だ。それは逆に「変えちゃいけないものを変える」というものである。普遍的に大切な価値のあるものを簡単にあっけなく破壊したり、とんでもないものにねじ曲げる風潮がある。築地移転やD&S列車なんかまさにそう。

2chの全盛期の前後といえば、今のJR九州のD&Sの黎明期でもある。質素な国鉄列車をけばけばしいほど派手なJR車両に置き換える、今の都市再開発のようなことがあった。「福知山線事故」もあったが、例えば国鉄末期の廃線を免れた田舎のローカル線だってD&S列車に置き換わったりしたはずである。

新しく、より多くを効率的にまとめるという点では、築地もタワマンやJR九州も同じだ。気持ち悪い新型観光列車や野暮ったいバスが破壊したバラエティ溢れる寝台列車もそう。しかし、固有性や多様性などそれによって失われたことは多いはずで、とりわけ文化的損失は甚大だったと思うなあ。

いまJR沿線の私鉄線に乗ると、昔の珍走団の車両のように外観を醜くしたような仕様の列車によく遭遇する。大都会の通勤路線に合わない場違いなもので、沿線は庶民が住む地域の感じなのにセレブなインテリアだらけで、乗っていて息苦しいのである。

これは恐らく私鉄的な合理化ではないかと思う。鉄道への投資が激化する中で、平日の通勤ラッシュだけ乗っても乗客が楽しむような、そういう風なためにわざとやったんじゃないか。しかしそういう合理化は必要なことだろうか?鉄道オタクの私から見れば逆効果だろう。

一部では私鉄と提携関係にあり、同じ地域で運行しているJRでは、こんな下品な通勤電車はない。外観のTPOを考慮しつつ、乗客からの評判をうまく高めている。

場違いなインテリアを採用したり景観を乱すなどして乗客を特別に扇動するやり方は公共交通の反則技であり、外国でも普通やらない。増して世界に通じる自動車・バイク業界の世界では御法度だが、日本の私鉄は日本ローカル産業であるため、こういうことをやってしまうのか。

非合理性を無理してでも守る一方で、合理化しなくていい物を「合理化」する今の日本は異常なのである。このままいけば、京王や名鉄、挙句の果てにJR東海の新幹線や京急の電車ですら他のJRのようなD&S列車がないからと次期新型車両がJR東日本の新幹線や近鉄の観光列車の海になる可能性さえある。リア充層やマイルドヤンキーのニーズは確かにあるが…

 

今の日本が無理してでも守る非合理性は、旧態依然の、しかし歴史の浅いものばかりだ。長くても江戸時代以降、ホントに短ければ2000年代に由来するモノ(例えば初音ミクに起因する風習など)さえもほんとに多い。その一方で、膨大な歳月大切にしたものが、刹那的な合理性・利益のために破壊されすぎだ。

こうした時代を象徴しているのが安倍晋三政権である。つまりこの流れを「逆転」させなきゃダメだから、左翼やリベラルの野党勢力は「無理やり変えられたもの、変えようとするもの」の破壊・解体を阻止しつつ、既存の日本社会が絶対に切り替えられなかった負の因習をぶっ壊す提案をすべきではないか。

私の思う都市政治の理想郷像

※当たり前だが、内容はフィクションである。

もし私が選挙に出るとしたら?

 

一.ベーシック・インカムの導入による外国人生活保護の停止
平成26年度の資料で都内の外国人被保護人数1万1269名。
日本人も含めた生活保護費全体で5643億7896万円。
この生活保護ベーシック・インカム導入により廃止していく。

二.都心部の景観を守る
近年の商業広告の氾濫は市民に対する不安を煽り立てるものがあります。
特に消費者金融関連の広告は未だにたくさんありその規制が急務となっております。

三.ノブレス・オブリージュ宣言の採択
現在の日本の富裕層の振る舞いが日本人のみならず外国人からの顰蹙を買う原因となる行為を自制することを求める宣言を採択します。
貧困層富裕層が共生できる社会が本来あるべきです。

四.任意団体への監視強化
麻布にある民団ですが公の業務としてパスポートの発給が行われております。
任意団体であるはずの民団が公の業務を行い税金を減免することはいかがなものでしょうか?

五.過剰車社会の清算
我々の調査しているものだけで毎年500台の自家用車が増加している。
この過剰車社会が公共交通再生の障害になりさまざまな社会問題の根源に変わっている。
結局の所市民が自分で自分の首を絞めているという事です。

住む場所にもよりますが自家用車に関しては「公共の資産」と断じ、所得による制限や外国人への公共交通利用推進などの対策を講じます。

六.大量移民受け入れ中止
現時点で住民の大半が理解し得ない大量の移民受け入れについては実施いたしません。
その代わりに出生率改善を目指して子育て支援政策を行っていきたいと思っております。

七.マスな公共交通の実現
1990年代はマスだった公共交通ですが現在公共性に反する鉄道が運行されています。
少しでも公共交通での無駄を減らしてマスな公共交通を目指したいと考えております。

マイルドヤンキーに迎合する公共交通業界はこのままでは壊れる

オタク・おたくは私が生まれた時からあったようだが、自分が彼らの存在感を意識したのは任天堂がゲーム会社として躍進していった時代だ。以降、「ポケモン」やら「マリオシリーズ」といった名作を怒涛の勢いで出していく。そんな彼らオタク達の愛するコンテンツが最もすごかったのは、こんにちの日本のサブカル・マスカル像の基礎を作り上げたことにある。

私は新潟県に滞在している時、自身の趣味について知人と話していたらふとある記憶を思い出した。10年くらい前に、神奈川県から愛知・岐阜まで在来線だけで行ったことだ。この際使った快速列車に使われていた車両がJR世代の特急車両(373系)だった。乗客も同じような客層ばかりで場違い臭プンプンだった。

影の薄い優等列車というのは時代錯誤なものだが、それにしてもそういう感覚と一体的だったのが、今で言うサンライズ出雲・瀬戸号なのかもしれない。少なくとも1990年代には今は亡き「ブルートレイン」のような夜行列車が大勢いたが、夜行都市間輸送が何年か経って主役さえも変わって、かなり貫きづらくなっていたはずだ。

そういう中で、2000年代までのJRや私鉄は当時洗練されているサブカルチャーの象徴だったと思う。だから、「鉄道好き=古い」と言う敬遠するような印象を持っていた国民層、若者たちなんかが受け入れて、結果的に大ヒットしたのではないか。

特に、700系レールスターやE1・E4系はJR新幹線の中の改革勢力だっただけではない。特急列車にとっても新鮮な存在だった。新幹線がスピード競争以外に没頭すること自体、それ以前にはなかったことで、新幹線業界も彼らが流れを変えた。

たとえば1990年代から2000年代前半にかけて、E1・E4系の走る新幹線は通勤ラッシュが当たり前、地域的現象になって当たり前だった。JR東日本の社風が良かった。昭和の時代に存在しなかったような発想が、沿線住民に評価され、その価値観を利用者に知らしめた功績は大きいと思う。

もしもJR東日本や西日本の挑戦がなければ、日本の新幹線は2008年くらいには成熟期を迎えていただろうし、東京・新潟間の輸送は下手をすれば飛行機に持ってかれたはずだ。既存の旧時代的なスタンダードを切り替える「平成の新常識」を常に作り続けたのがJR東日本・西日本だった。その新常識は、個性的で、自由そうで、洗練されていた。

■後釜が存在しない

そのJR東日本や西日本もみんな成熟期だ。成熟期は発展期ではない。しかし、彼らが未だに輝き続けた理由は、後に続く存在がいないからだと思う。新規グループならなんでもいいとか、マルチタレント性のある集団ならいいというわけではない。その時代にあった改革集団が必要だ。

鉄道で単なる有力候補であれば「JR東海JR九州」があるだろう。彼らだって今や優良勢力だが、正直、私が見る限り往年の大手私鉄と比べても社会的影響力は乏しい。313系311系なんか、名鉄VVVF車両に匹敵していない。なぜかというと、切り替えた常識が何もないからだ。

JR東日本JR西日本は非常に外向きで、部外の人を巻き込むような傾向があった。鉄道よりかは車・バイクに詳しい私の妹でも、私と縁もゆかりもないような人でもJR東日本JR西日本の路線と経歴とある程度の車両の把握ができている。しかし東海・九州の場合、コア系オタク層やマイルドヤンキーや大衆層にシフトしすぎだ。

JR東海JR九州はともかくとして、西鉄名鉄は典型的サブカル志向だ。いわゆる鉄オタと呼ばれる人たちの中でかつ一定のファン層であればとことん夢中で、列車に乗りまくったりグッズを買うことや副業で外国と関わるなどして影響力があるがこれらを除けば娯楽が変わっているオタク・おたくに慣れた層以外に広まらない。

では残りの大手私鉄はどうかというと、マルチタレントとして立派にあって、副業でも成功しているものの、大手私鉄はJR以上に土着産業の色が強すぎる。いずれにしても、日本の都市文化そのものや私鉄そのものに対し理解と関心がない人には入りづらい業界だ。

JR東日本JR西日本の後釜がいないという問題は極めて大きい。最近「JR離れ」「特急離れ」「鉄道離れ」が進んでいるといわれているが、みんな彼らの得意分野だということに気づく。彼らが新しくしたセンスに準じた後続グループがいない。何より、彼らよりも新しいルールが作れていない。

■マイルドヤンキーを過信してはいけない

日本の鉄道業界は2010年以降、マイルドヤンキー世論を過剰に意識しすぎで迎合しすぎだ。その正体は、オタク層でネット原住民の流れに乗り損ねた連中にすぎないと言うこと。少数の低劣な存在だ。

マイルドヤンキーとJR東日本・西日本はだいたい同地域であり、本来は地元が誇るコンテンツである。しかし、マイルドヤンキー空間では2013年のJR九州クルーズトレイン報道まで、鉄道の話題がほとんどなかった。騒動が起きたら、冷笑に明け暮れる連中だらけだ。マイルドヤンキー空間とはしょせんこんなものである。

そんな一方で、ネット原住民空間では普通の人は不良離れで無関心になりがちな「DQN文化的なものへの嘲笑記事」についての話題は多い。大抵、田舎者へのアンチが、気に入らない地域の柄の悪い人を叩き合うだけのように見える。どう考えてもわざわざ公共空間でのマナーの低さを映したりする連中は普通の人の態度とは思えない。

要するにこれがヤンキーなのである。ヤンキーは、万人にとって関心すら持たないコンテンツの信奉者が、万人そっちのけで内輪もめをする排他的な、つまり悪い意味で「ひねくれただけ」のいじめ的な日陰者の娯楽である。しかし鉄道文化はどちらかというと開かれたミーハーのサブカルないし(メインカルチャー)マスカルチャーだ。

(マイルド)ヤンキー空間だけ見ればこの世の大人の過半数以上は鉄道嫌いで、子供は柄の悪いのように思うが実際にはそんな連中の人口は殆どいない。この国の国民のかなりの割合が非(マイルド)ヤンキーで、一般人しかもベタなオタクかニワカオタクだ。その一般人はリア充層であれば地上波テレビが煽る話題を平気で迎合するが、オタクはそうではない。

オタクな人間は、わざわざ無関心な娯楽に対して深い関心を示すことはない。逆に叩くこともしない。そのため、より洗練されるコンテンツほど、その存在がヤンキー空間ではやたらと小さくなる傾向がある。アニメ・ゲームとかもその弊害を被っている。

思うに「ポストJR東日本JR西日本」が出現しない最大の理由は、ヤンキー空間の問題点に気づけず彼らを切り捨てられないサブカル階層のレベルの低さにあるんじゃないかと思う。欧米だったら(マイルド)ヤンキー階層はトロールのように反社会的な異端と言う認識が徹底していてあくまで良い意味での進歩が今も続いているではないか。

もちろん、オタク・おたくはヤンキーの十八番であるネタ消費の集団ではない。風貌だけの出落ち的な滑稽さもない。消費されて終わる存在でもない。刹那的なネタ消費の繰り返ししかないヤンキー空間と、カッコつけたオタク・おたくの消費するものは対極にあるのだ。

■ 「ドラマの派生系」としてのアニメ

一時期、ドラマとアニメの相関関係がブームになったことがあったが、アニメは「現代化されたドラマ」だったともいえる。実写空間内にそれにふさわしい存在がない時、サブカルの文化シーンは、テレビドラマをベンチマーキングしたテレビアニメがたくさん作られていた。

テレビアニメは昔こそマイナーではありながら、品質はドラマの影響を受けて洗練されていた。ドラマは全世界共通の文化だが、アメリカ発祥のアニメは今や日本のお家芸でもある。そういうわけで、1990年代であればほどほどミーハーにテレビドラマに巻き込まれていたような層が、テレビアニメに流れてしまったのである。

しかし、2000年代初頭当時はあちらこちらのネットや雑誌を見ると、大衆層とヤンキー層によるレイシズムありきのサブカル叩きだけが支配的で、それにヤンキーどもの「オタク文化叩き」が乗っかっていた。そして日本側のドラマ界も、アニメが台頭したから、じゃあそれを見倣って生かそうという発想はなかった。

もしこのままの状態が続けばどうなるか。1990年代にテレビドラマ人気を支えたような層は分裂していき、希薄になっていくと思う。あるクラスターは濃いアニメオタクになる。また別のクラスターは欧米の文化に逃げる。わが国の大衆娯楽そのものに嫌気がさし悶々とした日々を過ごすことになる人が急増する。

■すべてが無になる

ベタなネット原住民やヤンキーが多い下層にわかりやすく説明してやると、君たちが出てきた小学校・中学校・高校のある地域と同じである。大人によって街が捨てられた途端、一気に荒廃化かが進む治安の不安定な地区のようなものである。JR東日本JR西日本というランドマーク拠点を失った文化空間は、都市空間は、交通はどうなるか。

恐らく完全に「何もなくなる」可能性が高い。受験戦争が死んだとき、たった一つの社会問題が深刻化だけで、学歴競争は一度死んだのである。日本人の高学歴化が韓国に遅れただけでなく、エリート階層の成長も遅れた。本来成熟しているはずの上層の発展が遅れた。

1990年代にやさぐれた連中の文化と言えばギャル文化だったという。だが、すでにそんな人は東京の山手線沿線に行けば当たり前のように練り歩いている(柄が悪いか否かは違うが)。要するに不健全な文化としてのギャル文化は消滅した。2000年代になると、珍走団が「旧車会」とネタ消費されるまではヤンキーは死んだ集団も同然だった。

101系の生前には、日本のブルートレインが消滅するなんて誰も思わなかったはずだ。夜間に走る寝台列車というJRの常識がなくなることはありえないという感じだったろう。しかし、実際破綻するものはあっけなく終わる。

2012年と言う今更、相次いで高校生のバイク規制が緩和され、公共交通が悲鳴を上げているが、欧米であれば学生の公共交通利用は1960年代をピークに衰退している。1990年代にもなれば車社会の時代で、鉄道利用は極めてコア化が進んでいた。JR東日本JR西日本は新しい存在であったが、しかし彼らがいないほうが、2000年代に日本の公共交通業界は「世界水準」の構造改革を遂げた可能性もある。

オタク・おたくの娯楽としての鉄道文化の終焉を、あえて前向きにとらえれば「20世紀末に改革し損ねたサブカル界や公共交通シーンがやっと世界の水準に追い付くきっかけになる」とも思えるし、ヤンキー層やマスカル層によってサブカルとしての鉄道を一度殺した方が、第五次モータリゼーションと公共交通の再生のために重要ともいえる。

変な妄想を書こうその1

「ネットでの売名」およびそれにおける問題を解決する手段としては、「作品の公開」は必要ない。

 仮にある苛められっこの作品が発表され、それが数10万単位で何かを伴いヒットしたとする。
 昨日までの苛めっこはどうするか? 心を入れかえてユウコウテキ関係を始めるだろうか?
 そんなことはありえない。彼らはやはり今日も苛めっこである。昨日までと同様、彼は書き込みを片手に作品の作り手徒を追いまわすであろう。
 ここに倫理意識に燃える一人の苛められっこが、勇敢にも起ちあがり、「大ヒット作品を世に出した名誉という事実」を武器に、この苛めっこに抗議した。苛めっこは、「名誉」の背後にチラつく何かの威光にひれ伏し、この苛められっこの声を聞き入れるかというと、そうではない。
 苛められっこは以来、大きなお友達に目をつけられ、周りからも浮き上がり、悪くすれば「更に苛烈ないじめ」にも遭い、さらには「倫理意識の低い」子供からの圧迫を受けながらも苛めっこと戦わなければならないし、その努力は必ずしも報われるとは限らない。
 「苛められっこ」に武器があろうがなかろうが同じことだ。まず誰か最初の一人が、周りからの圧力や孤立を覚悟してリアルで起ちあがらなければ、変革は始まりもしない。
 こんなことは、ネット世界で本当に戦っている人間にとっては当たり前のことだ。それが分からないのは、本当に戦っていない証拠だ。実際、同人誌に体験談を載せたものの販売をガンバっている苛められっこは、せいぜい売名と、ネットの外での申しわけ程度の「コウセイ」をしているにすぎない。そんな「運動」は、いつか誰かがやらなければならないことを先送りしている以上の意味はない。
 何かを苛めっこを黙らせる武器にする、などという逆の意味で攻撃的な発想ではなく、自らの要求を、直接、行動で示すことそれ自体を根拠(=武器)にして、これまで以上に地道に、かつ戦闘的にやっていくしかないのではなかろうか。

 

   201X年時点での付記

 この文章を書いた2、3週間後に、Aさんは「自身の創作小説」を商業化しました。
 何か変わったことが起きたでしょうか?
 起きました。
 以前には、細々とはいえネットの中で、苛めっこと戦う人たちの運動が展開され、彼ら同士のネットワーク化も進んでいました。ところがそれが何年目かに入ると同時に、彼の頭の中はこの出版一色となり、戦う意思のある彼もそこに徴用されていきました。その結果、本来の運動は壊滅し、その継承の糸は断ち切られたのです。
 正直なところ、売名に反対していた当時のBさんは、そこまでの結果を予想してはいませんでした。つまり「出版やお金は毒にも薬にもならない」と考えていたのです。しかし実際には毒も毒、プルトニウムサリンなみの猛毒だったのです。
 「自身の創作小説」の出版こそが、苛め問題の議論を消滅させた。このことは何度強調しても足りないということはないでしよう。

アキバ系諸君へ

アキバを愛する日本人諸君へ

念のために忠告しておくけど、今の自分の置かれた状況が不遇だからといって
決して宗教もどきのサークルとかになんか入るなよ!>当時を知らない若い人たちへ!

そこらでの活動の実態は、頭の切れる者は主にナショナリズム宣伝の仕事をさせられ、そうでない人間は、やはり宗教活動まがいのことや右派のズッコンバッコン役をさせられるだけだけだぞ!そして永遠に右派思想・ネトウヨから抜け出せなくなるぞ!

 

嘘かホントかヲタク風の覆面右派とか確かあったな
ガタイのいいヤツは外へ働きに出されるってのも本当だよ
右派直営の市民団体の活動でさくら集めさせられる実体も暴露されてた
宗教も右派もオタクサークルもアキバを出れば他にもあるよ、いいヤツがいっぱいいる団体だって無くはない(怪しいけどw)
少なくとも、アキバあたりにたむろしているそれだけはやめとけよ

「民主主義国日本」は嘘ばっか 民主主義を疑う日本人が増えた

この『2016年の参議院選挙』は、結局与党自公の圧勝で終わった。
……ところで、「実は『理性の国日本』なんて存在しないらしいですよ」と教えてくれた友人がいた。
すべては、誰かが、外国人たちをたきつけるために作りだした「伝説」なのだと。
この現代では稀な「社会主義」が、実像なのか、それとも、誰かの作った虚像で、それに初(うぶ)な人間たちが踊らされただけなのか、この選挙結果を読む限りでは判断できない。

 だが、一つだけ確かなことがある。この選挙は、もっとも重要な部分を切り落とすことによって成立しているのである。

 『2016年の参議院選挙』は、正確には、儀礼的な式典だ。しかし、この選挙は、民主主義国の選挙の体裁をとっている。

 なぜなら、あくまでも民主主義国のルール上行われているものだから。
しかし、安倍政権の暴走が始まって以降、それまで応援していた外国人たちは、戸惑いを隠せず、そんなことは止めろと忠告する。だが、暴走しはじめた「日本」は、それを無視するのである。

 なぜだ? 国際社会を騙(だま)し果せたことで、凱歌(がいか)をあげたくなったのか? それとも、いつの間にか、世界に賞賛され続けることが、彼らの目的となっていたからか? 不可解なミステリーになるはずの「民主主義の暗部」を消し去ることで、この選挙は、見事に「儀式」の顔つきをすることに成功している。

2020年代後半の文芸の話題を考えてみた

■TNを君は知っているか? サブカルにはかつてこんな時代があった

 

サブカルチャーショックから今年で13周年を迎えた。TNは、日本サブカル小説のこんにちまでにわたる混乱に陥れた文筆家だった。

2016年X月Y日、TNは「前衛的実験作」をコンセプトにした宇○と○原を発表。2010年代からファンタジー・魔法モノが行き詰まりを見せ、200万人の文化難民と保守化を生み、日本文化へのの支持が衰えかけていた頃だ。

ネット民からの呼びかけに答えて、TNは作品を通じてサブカルラノベの王道に反旗を翻し、サブカルオタクはファンタジーへの反乱を起こした。全世界のサブカルオタクたちがこの動きに同調して、明哲の舎友の会と呼ばれる紅衛兵を作りあげ、同調したクリエイターがTN風な作品を発表して日本のサブカル常識の残り香まですべて破壊し尽くそうとし、TN台頭以前のサブカルものを「旧態文化」として差別した。

ある統計によれば、このTN派作品による総コピー数は1200万コピー以上に上るという。

 

日本サブカル界隈にとって、この時期の記憶は蘇らせたくないものかもしれない。日本サブカルの世代交代から5年後の2026年、日本のコミケの重鎮は、TNを「重大な災厄と損害、逆行」をもたらした「完全な反動分子」だったと認めるエッセイを発表した。

2029年5月16日、日本国内ではこの出来事に関する議論もなく、おおむね平静を保っていた。

この日、TNにまつわる行事は一切行われなかった。この話題について大きく取り上げたメディアも、一つもなかった。日本のサブカルを代表するどの新聞を見ても、他の記事で第1面が埋められていた。