ボンダイ(ボンK日報)

あれやこれや

変な妄想を書こうその1

「ネットでの売名」およびそれにおける問題を解決する手段としては、「作品の公開」は必要ない。

 仮にある苛められっこの作品が発表され、それが数10万単位で何かを伴いヒットしたとする。
 昨日までの苛めっこはどうするか? 心を入れかえてユウコウテキ関係を始めるだろうか?
 そんなことはありえない。彼らはやはり今日も苛めっこである。昨日までと同様、彼は書き込みを片手に作品の作り手徒を追いまわすであろう。
 ここに倫理意識に燃える一人の苛められっこが、勇敢にも起ちあがり、「大ヒット作品を世に出した名誉という事実」を武器に、この苛めっこに抗議した。苛めっこは、「名誉」の背後にチラつく何かの威光にひれ伏し、この苛められっこの声を聞き入れるかというと、そうではない。
 苛められっこは以来、大きなお友達に目をつけられ、周りからも浮き上がり、悪くすれば「更に苛烈ないじめ」にも遭い、さらには「倫理意識の低い」子供からの圧迫を受けながらも苛めっこと戦わなければならないし、その努力は必ずしも報われるとは限らない。
 「苛められっこ」に武器があろうがなかろうが同じことだ。まず誰か最初の一人が、周りからの圧力や孤立を覚悟してリアルで起ちあがらなければ、変革は始まりもしない。
 こんなことは、ネット世界で本当に戦っている人間にとっては当たり前のことだ。それが分からないのは、本当に戦っていない証拠だ。実際、同人誌に体験談を載せたものの販売をガンバっている苛められっこは、せいぜい売名と、ネットの外での申しわけ程度の「コウセイ」をしているにすぎない。そんな「運動」は、いつか誰かがやらなければならないことを先送りしている以上の意味はない。
 何かを苛めっこを黙らせる武器にする、などという逆の意味で攻撃的な発想ではなく、自らの要求を、直接、行動で示すことそれ自体を根拠(=武器)にして、これまで以上に地道に、かつ戦闘的にやっていくしかないのではなかろうか。

 

   201X年時点での付記

 この文章を書いた2、3週間後に、Aさんは「自身の創作小説」を商業化しました。
 何か変わったことが起きたでしょうか?
 起きました。
 以前には、細々とはいえネットの中で、苛めっこと戦う人たちの運動が展開され、彼ら同士のネットワーク化も進んでいました。ところがそれが何年目かに入ると同時に、彼の頭の中はこの出版一色となり、戦う意思のある彼もそこに徴用されていきました。その結果、本来の運動は壊滅し、その継承の糸は断ち切られたのです。
 正直なところ、売名に反対していた当時のBさんは、そこまでの結果を予想してはいませんでした。つまり「出版やお金は毒にも薬にもならない」と考えていたのです。しかし実際には毒も毒、プルトニウムサリンなみの猛毒だったのです。
 「自身の創作小説」の出版こそが、苛め問題の議論を消滅させた。このことは何度強調しても足りないということはないでしよう。