ボンダイ(ボンK日報)

あれやこれや

車精神と「ソトのウエ」を煽り続ける似非大衆文化の問題点

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 所謂畳精神におけるこの左右両翼の認識の違いを図式化したやつをみて、真っ先に思ったのは「車精神の非右翼性」だった。車は内には存在しない。家の外でなければならないが、地面から高床式で浮いた上位空間に敷き詰められているというわけではない。建物によっては居住空間よりも道路の方が一段低い場合もある 。

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その点、たとえば例えば自転車やオートバイであれば内側に置ける場合も当たり前である。つまり内側でもオブジェクト的な感じで用いられているし、家の飾りとして自転車を所有する富裕層も当たり前にいる。コスプレイヤーなども同じ。鉄道に於いても改札の存在は、私的空間と公共空間を識別するための装置だ。

しかし車はそのまま家の内側即ち人間が寝たりする場所に配置することは不可能で、排ガスによる汚れなどは承知の上で家の内部の例えばリビングみたいな大きな部屋を用意してそこに車を駐車する、ということはありえない。車庫という明確な左右分離は必要不可欠なのである。

車社会文化をあえて嫌う人は私(兄)と妹の現存する実家である関西や東海や地方都市にも大勢いる。関東のような大都市の方が多いと思う。そういう人々を見ると、例えば自転車の場合は折りたたみ式のスポーツバイクで、部屋の広さやエレベーターの有無によってはそのまま家の中の工具入れのクローゼットに格納する人が多い。オートバイの場合は重量やサイズにもよるが、自転車の駐輪場みたいなところに駐輪することが多い。外国でも同じようなスタイルのはずだ。エンジンを切って押して歩く場合のみを考慮すれば内側に格納してもよい。

車好きがよく、「KカーやVIPカー」とか、何かにつけて順位を過大評価して尊敬・謙譲する。そのような関係が日常化するのはVIPカーがソトかウチの下位の存在だからで、彼らが鉄道などの権力を糾弾するのはそれが内にいてかつ上位の存在だからだろう。

車は左右や内外の関係だが、鉄道には国鉄とか公営鉄道に権威があるとされている。これは右側の上位であり、外で劣位にある人たちを無視し、そして底辺車という虫けらのような存在を糾弾しながら対等な存在である左を「邪魔」と叩く。車とは世界が違う。

 

 この縦横関係と空間認識が一致してしまった例が、車・バイクマニアの間でサーキットを走る痛車や痛バイクが「暴走族の猿真似!」と大炎上した件だ。車・バイクオタクにとっては内の上位として見下される芸術文化が、ソトなる道路空間へ入ったのに激怒した。

このペイント車両の写真や映像では、移動する物らしからぬ"奔放な"塗装をしていた。躊躇せず車体にキャラクターの絵が描かれていたり、マフラーが外部に露出していたり、無造作に空ぶかしをしていたり、変な装飾がついている様子は、公共空間を走る物としての車やバイクに対する従属精神や作法と無縁だ。

車・バイクマニアたちはヒエラルキー由来の意識があることに加え、そうした精神的ソトの外部による自分の内部空間への「蹂躙」が許せなかったというわけである。そう考えるとあの異様すぎた炎上の原因には納得がいく。これに加え狂信主義者の特殊な暴論と気づかずに流されるネット原住民も少なくなかった。

普通の常識で考えて暴走族がそこまで叩かれたのは、その振る舞いが公道上で行われたからである。つまり道路交通法ではサーキットでの車両の整備基準は関係ないので別である。それこそ「大体の日本人の中にも」公共空間とは隔離されたジムなどのリングの上でボクシングやプロレスに励んでいたことが子供の頃にあるはず。それを許容できないのはよほどの封建主義者だろう。

普通の常識で考えればサブカルチャー・サブカルとは固定観念をあえて覆すものである。それは20世紀の漫画やアニメの過激な表現などを見ればわかる。既存の常識、とりわけ権威性に通じるものに常に対峙することでサブカルは自由になってきてカッコよくなっていった歴史がある。

そして想像してみればわかることであるが、車やバイクのサブカルは比較的歴史の古いサブカルチャーである。日本におけるそのルーツは車・バイク文化の中でも革新的で大衆文化と縁の遠い文化の世界にある。しかもつい最近まで旧車会などのヤンキーが生き残っていた歴史のあるような地域だ。日本人にとっては今や非行に走る人は珍しい。しかも日本においてサブカルは事実上の大衆文化で、オタク差別はない。

「車嫌いの現代大和っ子が車精神を培う手段」が、まさに自転車だろう。自転車は免許のいらないバイクみたいなもの。法律でも公道上では軽車両に分類されるものだ。その時通常は道路の右側や歩道の中を走ってはいけないし、オートバイですら譲らなければアウトみたいな感じがある。

そして痛車や痛バイクの文化的な由来であるオタク空間には、富裕層がいきなりお宅になっても、縦社会はない。横社会のみだ。

そういうわけで、痛車や痛バイクの所有者はおそらくヤンキーの経験がないし、もしかすると今回で初めてその車両を走らせたんじゃないかと思うくらい、車精神と完全無縁の人生を送って来たんだろうと思う。それは自由で素晴らしいことだが、この激しいヘイト炎上連中はそれゆえに私を失望させるものであったのだ。

ネット原住民以外にもネトウヨが乗っかり、内容を精査すると一部にはオタクに好意的、オタクやヤンキー経験のあるあるいは今そういう人々も「こんなことをしてはダメだよ」という風にインスタに水を差すことを書き込んでいたのだった。私は最初から気がくるってるネトウヨやネット原住民よりその方が不安だった。

一見するとどこかのアジアの国とほど遠いような資本主義世代なのに、ヒエラルキーや縦横関係を抜きにした「精神的ノンポリ性」を共有しているからだ。公共空間とは切れたサーキットでさえ自由を許せないのはそもそも間違っているし、そういう人は、痛車バイク文化と論理性や精神性の同じ鉄道オタクやサブカルオタク、ましてや日本の文化も許容できないのか。

そうやって不意に開陳されてしまう「封建由来の抑圧的な精神」に触れることが、私にとっては一番ショックで、外国人とか、オタクと不良をちゃんと区別してそうなタイプの人すらこういうのがいるんだとか思うと、この社会はどうやってもっと良くなることができるのか、と考えてしまうのである。

で、似たような構造は「街中でのデモ行進」にも共通していると思う。いま日本では、急激に娯楽離れが進んでいて、東京から鳥取のような田舎まで、リアル空間からランドマーク的存在のような娯楽がバンバン消えている。おたく空間も消えているが、だが政治運動や過激派思想は逆に大きくなっている。

たとえば保守団体の徒歩デモ。反韓国デモの中でいくつかの旗を振り回しながらデモ隊が公道を公安の先導のもとに行進する風景がある。パレードみたいなものだが、このデモ行進に必ずあるデモ隊が旗を振り回す光景は、車精神そのものだ。旗を振り回すなどをして示威行為をしているわけだ。

普通に考えて公道上で旗を振り回す行為は、昔ならばバイクを乗りこなす珍走団や暴走族が敵対する同じような集団に対する挨拶行為まがいなやり方である。2011年以前はそういう認識しかなかった。それをやられてうれしいと思う若者がいたら、それは不良予備軍であるし、ヤンキー精神に屈するようなものである。デモの風景として罵声やシュピレッヒコールなどの物凄い爆音を伴うことが多いのもいかにもだ。

旗を振り回すデモは左翼界隈にもあるが文化空間では自動車やオートバイや自転車を描いたものも多い。つまりこれらは道路の上で執り行うことであり車精神である。そのうち路面電車とか車椅子とか家畜とかも出てくるだろう。それを求める囲いがいるのだから情けない。

また、あからさまなイデオロギーを煽る「メッセージもの」として、オカルト作品も増えている。志倉千代丸氏原作のオカルティック・ナインはまさにオカルトを描いたもので、氏のSF的イデオロギーを抜きにしても、フィクションによるオカルト美化の作品だった。しんきくさいジメジメ感がいかにもオカルトらしかった。

そして旗振り系のデモ参加系の政治思想家と、オカルティック・ナインシュタインズ・ゲートハリー・ポッターを見たがるオカルト好きのためのSFファンタジーの「チャンポン」ともいえるのがマクロスデルタだったが、いかにもこれはオカルト臭いリベラルが喜びそうな内容であった。

車精神に起因する社会運動の顧客層(プロ市民やその"下半分"も含めて)には必ず共通点がある。それは趣味や娯楽をもたない層であることだ。政治そのものが毛嫌いされてきたような時代から、あえて逆張りで、できてまだ10年も経ってない地元の政治運動に没頭し、どこかの繁華街でこうしたデモ行進に参加しまくるのである。

こうした野蛮人と相性がいいのが、「ヤンキー村社会」である。公道でのデモ行進での旗振りはまさにそうで、昔なら一部の物好きが煽っているにしても、現代では必ず万人が横並び一律で見て当たり前で、その同調圧力と他の選択肢のなさがこの光景の持続を支えている。しかし公道を離れればまるで無名だ。

「ヤンキー村社会」の中心核にあるのが「封建社会」ではないかと思う。彼らの精神の中心には封建主義があって些細な文化にさえその名残があるように、ヤンキー村社会の中心に封建的社会があるのである。昔ならまさに渋谷や池袋で遊んでいたようなギャル文化のとっつきにくさとヤンキー文化のとっつきにくさは似ている。

現代化された「封建社会」とは、正しく車精神ではないか。オートバイが自動車に斜線を譲るような感覚があると思う。ある意味縦社会である。その信仰が車社会には根強い。

不良文化が一部地域を除いた日本の各地で旋風を巻き起こしたように、車精神そのものの文化には、管理主義であり、国際主義であり、普遍主義であるのだ。

そとの結束はそのように弱体化されているのだが、逆に「うちの結束」はより強化されているのだ。

最近起きているデモ行進における、この手のイカレポンチな発想は過激派空間の片隅で発生したムーブメントというよりは、むしろヤンキー的発想だと思うのよね。

SEALDsや在特会だって、若いころは文句なしの社会活動家集団ではない、むしろ頭の不自由な人間達の集合体だった。デモ行進を誇る以前にはスポーツや趣味を振り返ったりしていて、商売に対する見識も広そうな人だ。恐らくこれは、ネット原住民型の人間だと思う。

公共空間に最近やたらとカウンターカルチャー由来のものが増えている。最近はチャラい人やギャルサーに対する抵抗感がなくなっているし、車やバイクでも、最近の鉄道車両如くデザインや美術面での競争が進んでいる。しかしそれはヤンキー文化や縦横社会を源流とする文化というか、正しく車精神の方向性を煮詰めたようなものを感じる。

 いわゆる2010年代サブカルと1990年代以降の珍走団はベクトルが違う。2010年代サブカルの例えばSEALDsは「ノンセクト・ラジカル・ソフト・マイルド化した珍走団」と言ってもしょうがないが、後者はどっちかというとサブカルチャーにおける反骨文化ノスタルジーを煮詰めたようなものである。で、「SEALDsや在特会の旗を振り回し、スピーチなどの爆音をとどろかせる光景」はコッチ由来だ。

日本の野党やアメリカの民主党が戦略的に下手なのは、そういう車精神の人が強烈なヤンキー気質であり、ゲリラデモやにわか暴動のひな型が日本で言うところの暴走族文化にあり、最大限にして唯一の娯楽や活動空間が公共空間ということが多いということを熟知できていないことではないか。だからSEALDsにせよ在特会にせよ、中途半端な形で失敗に終わった。

車精神と「ソトのウエ」を煽り続ける似非大衆文化が、結果的にアナキズムに直結している。文化的貧乏人になっていて、その先に「意味不明な事件」がある。こういうネットの片隅の空間と一握りの心無い上層階級の相乗りで繰り広げられる得体のしれない反良識文化に、そろそろ誰かが追撃してもいいだろう。