ボンダイ(ボンK日報)

あれやこれや

greatchina2の鉄道好きの本当の理由

>なんで、お宅は今時車アレルギーなのでしょうか。
家族と私の社会の無関心以上に、ネオリベが執拗に鉄道好きに対して圧力や嫌がらせを行い続けたためです。妹のバイク利用と家族の車嫌いは反戦分子潰しという家族のネオリベに対する絶対許さないという強い意思表示でもありました。

 

環境が100%の原因です。
私の家族の場合は拒否で、最後の最後までがんばっていました
自転車とバイクまでの踏みとどまりは評価されます
最大の原因は一部の戦争参加現実論者による鉄道好きへの誤った知識による批判です
戦争の障害だのは過去の間違った考えでそんなことはまったくありません

実際韓国では高架化や地下化などで対応しましたが日本ではまったくの逆でした

そればかりか日本国民の戦争準備反対の要望を無視してきました

ほかにも環境対策の進行を妨げるなど戦争する側に気に入らないものを目の敵としてました
さらには賛成派も見習って運転免許の取得の推進などしてきました
結果私の家族のうち妹が音を上げたと言った感じでしょう
公共交通がここまでいい加減になった原因は日本国民の時代錯誤な考えと戦争問題に対するの関心のなさが大きい理由です
ちなみに今の与党の背後に私鉄という大きな応援団があると言われています
しかし戦争準備を推進(自覚はないにしても)する馬鹿さ加減にはあきれる
そんな馬鹿なことを云わないほうがここまで自民公明が嫌われなかったのに

 

安保法制成立の原因は国民の無理解です。

「まるで外国が鬱陶しいので対抗する」
昭和時代の考え方です。
そもそもここまで酷くなった原因は外交の失敗なのです。

慰安婦問題に限ってみれば韓国では日本の意見を見直す動きが広がっています。
韓国のとある新聞でも、「慰安婦問題は信憑性のあるかどうかわからない」「この問題はおかしい」という記事が書かれていました。
他にも日本各地で、具体性や進捗状況に差はありますが、日本の野党を見直す動きが多くあります。

もう少し時間が経てば、日本国民も戦争に備えたことが失敗だったと気づくでしょう。

バスVS鉄道 街をにぎわす超距離交通たち

私の事務所は格安高速バスの駅で、家から長距離列車の駅をとおって通勤している。
そこで、バス停に来るバスと新幹線や私鉄に来る列車の違いを比較して観察すると面白い。
バスの方は本当に外国にいるかのようで気持ちいい。
バスによって様々なサービスがあるので、乗客たちはみないかにも嬉しそう。
私から見ても完璧にかっこよくきまっているバスが出没するので、楽しい街であることは間違いない。
特に多客時は、停留所付近自体もターミナルのようである。

しかし、気が付いたのは、高速バス停留所で現れるバスたちが、誰から見ても好感がもてるようなサービス・ダイヤにすごく厳密に計算されていて、画一的に規格化されていること。
特に、外国人がこうあってほしい、と思う願望をそのまま切り取ったようなバス趣味に出てくる素敵な乗り物なのだ。
バスは自分の意思で利用してるのではなく、プロデュースする人間が、客の目から見て良く見えるスタイルを綿密に計算し、乗客のニーズや美意識からみて完璧なスタイルを決定し、バスを走らせている。
プロデュースする側が綿密にニーズを計算した結果の成功なのだ。
それに引き換えると、長距離列車の車両、通勤鉄道車両、近郊列車はどうだろうか。
詳細に描写するのは控えたいけれど、以前の寝台特急・客車列車やら、自己流の観光列車、けばけばしい内装や外観など、みんながまゆをひそめるような車両を見かける。外国人からも好かれないだろうし、日本人に好かれるとも思われない。
これらは自分たち鉄道会社などのためによかれと思って、自らのプロデュースでこうしている。
抑えきれない欲望、自意識と自己顕示欲、私は私という意識が列車たちをしてそのように装わせているのであろう。
私も大学生まではよく列車のお世話になっていたが、しがらみにがんじがらめのバイクでは自己を解放できない。
長い休みの日に長距離列車の駅にきて、普段はなりをひそめている本当の自分を解放するのだ。
その意味で、鉄道ファンたちは他人の戦略ではなく、自己の決定で、テリブルではあるが、楽しんでいる。
だから、感じがよいのは圧倒的に道路を走るバスや自動車や飛行機や船だけれど、人為的なこれらより、駅や鉄道線などにいてまゆをひそめてしまうような列車たちも応援したくなる。

ある種、ジェンダーな問題ですよね。

市民や公の戦略に乗っかって従順に従い、民間が成功するとしても、それは本当の成功といえるのか。
自らの戦略で突っ走り、四面楚歌になって失敗しても、民間が自力で立ち直って傷つきながら自分の道をごまかさずに進んでいくほうが幸福なのか。
とはいえ、多くの民間は現代社会において、みんなに受け入れられつつ、賢く自分を追及していこうとするものなので、決して二者対立ではないことが多い。
バスや自動車やバイクたちも、商品として演じているわけだしね。

心配なのは、バスや車社会やバイク社会の市民たち。
道路に出てくるような美しい均一的なバスや車やバイクをこよなく愛しているけれど、本当の交通機関の姿は、バスのように均一的ではなく、鉄道のようにひとりひとり違う。
自分の意思で装ったり行動すれば、市民たちの願望通りにはいかない。
あのバス社会の市民間で増幅されている、日本離れしたバスたちに対する幻想が、多くの日本人をリアルな公共交通から遠ざけているように思えてならない。

そろそろ専門学校を大学・短大で淘汰しようではないか

最近日本ではグローバリズム構造改革賛成デモが起きたばかりだそうだが、これ、コケる気しかしないんだよ。だって、支持できる日本人が一人もないんだよ。少なくとも成功している国にありがちな存在意義を獲得することはできないだろう。

日本は若者の大学進学率の80%超えを目指しているけど、そもそも日本の大半の大学のルーツって旧制専門学校じゃないか。東京電機大学も、戦前はそうだった。専門学校の大半を大学に移行できなければ教育を近代化させる意味がないと思うんだけどね。

私が大好きな韓国や台湾や中国のそれも、専門学校を大学に置き換えて、大学の絶対数を増やして、それでやっと成り立っているんじゃないかと思う。日本はその点ワンテンポ遅いのではないか。

実際統計で見れば、大学進学動機は就職より専門的技能や社会人スキルを身に付けるための性質が強い。経済の成熟の関係なのかもしれないが、高学歴化政策に必要な学校整備は単純にFラン校を増やすんではなく、専門学校を置き換えるべきだったんじゃないか。まあそれでも失敗すると思うけどね。

統計を見ると、現代でも専門学校進学はそこそこいるが、例えば情報学を学ぼうとして考えるくらいならまず大学進学、そうでなくても短大進学だろう。大学もピンキリである現在、今時専門学校に人が集まるだろうか。

更に云えば、日本語の辞書などでは専門学校卒と短大卒が低学歴と高学歴の境界線らしいが、学力だけ考えればはっきり言って大差もないし、短大のレベルは大学よりも少し劣り気味だし、そもそも短大・専門学校進学希望者がそこそこいるとは思わないんだが、現状維持でうまくいくと考えているんだろうか。

神奈川県横浜市旭区に○山○記の母校があるのだが、あの短大は一度行ったことあるが、存続に必死な感じがした。衰退期の専門学校みたいなもの。もちろん専卒よりは学歴の価値が高く、教育も充実しているが学費が安いだけではうまくいかないのだ。

特に社会的に成熟している地域においては、ニーズの見込めない専門学校は「淘汰」が重要ではないか。アメリカにおいてそこそこの専門学校を成り立たせているのは、そもそも大学の敷居が高くて底辺層の進学率に難があるから。だが日本や韓国の場合、大学の敷居が低く、名前を書けば入れる大学さえある。

日本は世界屈指の、普段後進国とする停滞国、今の成熟途上国の代表格の1つだが、大学や短大の普遍性に打ち勝つことが専門学校にできないようなら、存続させる価値もないし衰退するしかないだろう。

自称左派に非難されているJR九州から我々が学べること

 日本帝國主義体JR北海道が異常事態に陥っています。経営困難が多数発覚して次々に鉄道の運行を減便したことでバスの利用を強いられる事態に追い込まれた事実も発覚しました。関東私鉄やJR東海に対しても公共交通のあり方を巡って住民による不買運動に発展していたり、自称鉄道ファンが反社会勢力との交際をしていたりとか、権力を持てば何でもやれるというところに人間というものが堕落してしまうものだということをまざまざと見せつけています。そして、バレたらウソをつき通して逃げ切りを図ろうというのは、豊洲市場移転をめぐってインチキ施設を作っていたことが発覚しての元日本帝國主義体東京都知事石原慎太郎逆徒の態度にも現れています。人民の財産を権力や資本側の利権として食い物にしたり、最悪の場合は共謀罪による副作用や1億総車社会市民政策のような人民圧殺政策に投入したり、そのような社会システムの根本から転覆させない限りこの社会全体が人権に見合った存在になるはずはありません。

 さて、九州地方のある私鉄が自公帝国主義政権に協力していたなどという理由でバッシングを受けているようです。JR九州が2013年に観光列車の運行開始をしたことについて西側帝國主義自称左派勢力が公共交通に対する冒涜だとかの言いがかりをつけて鉄道ファンまで巻き込んでの糾弾扇動をしているのに、一権力が乗ってしまったということです。一方で日本帝國主義体制は国際化多文化社会化を目的として、高校生へのバイク制限は廃止にするものの反モータリゼーション政策自体は継続するとの姿勢を崩しません。こんな態度では国際社会はますます対日本帝國社会不信感を強めるに決まっています。
 ところで、今回批判対象になった鉄道会社(以下JR九州)が長年にわたって自公政権との友好関係を深めていたことも知られています。その発端は、日本で車社会化が進行しつつある時期にあり、多くの人民が鉄道の利用を手控えようとするムードがはびこるのを逆にチャンスと捉えて鉄道の再生をしてきたということです。企業や一般人まで自公シンパ勢力を完全に撲滅するのは難しいとしたものですし、JR九州には利用者の生活もかかっていますので、例えばとあるJRが反社会勢力に掌握されたとしてその鉄道ユーザーまでもを犯罪支援勢力だと決めつけてしまうと社会そのものが批判の矢面に立たされるだけです。このJR九州以外にも、日本国内には政治勢力と活発な交流をしている企業は多く、これらの企業が社会的制裁の穴になっているという指摘はよくされています。
 社会全体であるとか、政治勢力などの組織による制裁が行われた場合、多くはその制裁を正当なものとして受け止めて従います。しかし、中には当然のことながら制裁を不当なものと捉えて、制裁の意思に反する行動をとるような勢力も出るものです。そして、その制裁の意思に反する行動をとる組織や個人が少しでもいると、大多数による制裁の意思が完全に破綻するという状況も起こりえます。今回のケースでは自称左派勢力をはじめとする日本社会全体でJR九州に制裁を加えようとしたのに、一部の組織がむしろ利益を生み出すチャンスと見てJR九州との交流を拡大させようと画策したということになります。これがただ単に一部の個人や組織が自らの利益を貪る目的だったとするならば相応の批判に晒されるのでしょうが、制裁の正統性の方に問題が大きいとするならば、むしろこの種の個人や組織は自らの信念に基づき活動を拡大させて当然というものです。
 日本帝國主義社会の場合、公共交通を目的としない旅客鉄道は「政治的正当性(PC)」云々問題により法的には「表向きは」完全に禁じられています。そして、法律やPCの穴を潜り抜けてこういった観光鉄道の利用をしようとした場合にネックになるのは、非公共交通的鉄道及び観光列車を日本国内で運行しようとすると非難圧力が相当かかることです。その意味では、JR九州の観光鉄道を鉄道再生の手段とするとなれば相当なハードルの高さは覚悟しなければならないでしょう。とはいえ、「自称左派を中心とした自称良心的勢力が反PC的公共交通勢力に非難を働いている」情勢が逆にチャンスになりうるのは、今回批判されたJR九州が示唆しているということはいえるのです。

私の現在の立ち位置

高山直人にとってアキバ文化は人生の基礎のような存在であり、自身は「現代の大衆文化の省庁」「都市型文化都市のスタイルを固めた地域」などと語っている。2001年冬に高山はアキバ文化と出会い、その技法を学び取ったことは、彼のネット活動スタイルに劇的な変化をもたらしたとされる。その一方、アキバ系は当時の高山直人について「最初はおとなしくて臆病な男だった」「僕の空間におそるおそるという感じで接近していたが、ぼけぇっと突っ立っているだけだった」と語っている。このような高山とアキバ文化の関係が崩れたのには2つの理由があった。以下は高山の手記による。
一つ目は、2012年衆議院選挙でのサブカル消費者の態度にあった。街宣場所でマスコミとトラブルになり、一時期大混乱になった。高山はこれは政治集会でありサブカル大会ではないことから、その区別をきちんとするように彼らに訴えたが聞き入れられず、路線の違いが露わになった。
また、秋葉原や相模原での連続殺傷事件の際、ネット上にある事件を中傷するコメントが掲載されていたこともあった。高山は政治集会や連続殺傷事件におけるネットユーザーやサブカル消費者の態度が現在の状況に繋がったとし、彼らもきちんと反省すべきと主張している。
二つ目は、偶然顔見知りになった秋葉原のとあるオタクが宗教団体と関係を持っていたことであり、高山はネット上の件よりもより悪質だと主張している。高山は相模原での連続殺傷事件が発生する前、秋葉原で高山にどうしても会ってほしいと紹介された人物に会い、紹介されたときは名刺も何もなかったので普通の人かと思ったが、言動が普通の人間と違うので怪しいと思った。高山が新興宗教関係に詳しい家族に名前を調査させたところ、その人物は以前社会問題となっていた宗教団体の地域役員であったという。高山は日本社会における宗教団体への締め付けが近年とても厳しくなり、そのために新たな人財として一般人を利用しようと考え、サブカル社会人の中でもコンテンツ生産者の卵と接触を図ろうとしたのではないかと推測した。
高山はこの事実を知ったのち、携帯電話を受信・着信拒否にしていることを知った、そのオタクが「貴方は私と彼を捨て駒にしましたね」という言葉を暗示しているのを察し、そうなるのは当たり前だったとしている。また、サブカル社会人まして生産者を名乗る者が宗教団体と付き合うのは非常に問題であるとし、上記の問題による路線の違いもあってこれ以降アキバには踏み入れていない。その反面、高山は何が彼らを狂わせたのかと残念がった。

現実問題としてシステムの終焉を考える

鉄道交通の変革がどうも1ステージ上に上がった気がする。D&Sの賛否の件と言い。ここまで厳しい意見は以前はなかった。

この手の意見があると、一般人は鉄道ヘイトをむき出しにするものだ。お前はもう詰んでいるんだから無駄な抵抗は諦めろと、そういう冷笑ね。でも、よくよく客観的立場に立って考えると、本当に必死なのは、彼らなんじゃないか。

たかが1つの産業。それも日本唯一の産業で、規模もバス会社などと他と比べ極めて小さい産業に対し、一般人がここまで必死になるのは、どうも常軌を逸していると思う。あの逆ギレも、ありえなかった。

 

JRは29年前に国の支配から脱却した経験がある。当時の国鉄は現在のJRよりも遥かに「いかつい存在」だった。しかし、ひるむことなく民ぐるみの抵抗をしたから、今日本のJRは民に帰属している。その国が道路交通をさらに増やそうとしている現実があるのだ。

本当は、公共よりも私企業の方がタフな存在なんじゃないか。今、交通機関権力を掌握しているJRだって、以前は公営だった。車社会で無残なほどにまで敗北して民営に転向したのは昨日のことである。それらは、何より田舎者が一番わかっているのではないか。

どうも私企業・鉄道の敗北よりも公共交通の終焉ということの方が現実として起こる可能性が高いのではないかと思う。2016年の日本人のうち、国鉄の終焉体験の記憶があるのは、40代以上の人とJRユーザーだけである。若手の国民は公共交通の終焉などあり得ないと思っている。

 

しかし、JRの歴史は29年程度しかない。その前の国鉄は1949年に設立され1987年に民営化と言う形で日本人によって倒された。一部日本人はJRは公共交通であると思い込んでいるが根拠となるのは多くの学者が実態を疑うJR会社法しかない。

国鉄が38年程度の寿命だったら、新生JRもその位すれば崩壊するんじゃないか。あるいは、それよりも早くに終焉を迎えるんじゃないか。ということは、JR北海道関連のTwitterにおける「JR北海道の終焉」と言う表現を聴いた時、ふとよぎってしまった。

日本国の傀儡企業であるJRが未来永劫続くと思った鉄道オタクは多分そんなにいなかったのではないかと思う。おそらくそういうドライな見立てが、今は日本に向かれていて、JR九州は、公共サービスの尊重を半ばあきらめ、ビジネス単位で動き回っているんじゃないか。

地方都市を中心に鉄道を見ると、新しい街が近所にあることに気づく。そしてその大半が、近代史だけをみても終焉経験のある新しい地域だ。仙台や福岡は国鉄が倒れた後に都市化が加速しているし、名古屋のように交通構造が大きく変わった地域もとにかく多い。

古い機関が、システムが旧態依然となって、硬直化し、保身に走り、利権ばかり作り、それと密接な集団も既得権にばかり蝕まれて、そういうがんじがらめになって自滅するだけなのに対し、新しいそれほど、新しい秩序を起こし、発展させたり、いい意味での競争や支援環境が充実しているように見える。

 

たとえばアニメというサブカルは、いまや日本最大の先進的なマスカルであり、世界に通用する文化だ。日本のアニメとドラマを比べると次元の違いに圧倒されるのだが、電車男というドラマが発表された2005年がまさにその爆発期だった。

中高年に話を聞けば、20世紀前、いや2000年代前半さえアニメがこうなるとは思わなかったという。40代や50代の若い頃はドラマの最盛期で、バブル崩壊後も需要があったから、しょうがない。下手すりゃいまだ下に見ている人が40代以上には少なくないかもしれぬない。

だからこそムキになって自慰行為みたいなのに明け暮れるサブカルアンチがあるのだろうが、しかし、考えてみればゲームでさえ、これほどスポーツに適した存在になれたのは、やっぱり韓国が日本のゲームを改良できたからではないか。

 

とはいえ、このところふとよぎるのが、日本の中間層はおろか新興富裕層さえ劣化しているような気がするということだ。ブラック企業やマフィアをめぐるあれやこれやは日本の持つ側の民度が一気に落ちぶれている結果ではないか。安倍首相もトランプ氏もまさに持つ層出身で、テレビ番組でも人気だった。

で、日本やアメリカの中で「社会主義共産主義復活論」がにわかに高まっているというのは、もしかしたら資本主義の終焉を予期した人たちの生存本能的な選択ではないか。貧乏人よりどっちかと言うと金持ちやエリート層にその傾向があるというのは、やっぱりその発想の方が正しいのではないか、と思う。

凄く陳腐なたとえだがこれ自体日本人もなんべんも引用してきたものだが「民間人による社会の監視」だって、実際に機能したのは幕末期や第二次世界大戦後など非常時のわずかな期間だった。で、やがて混乱が収まり正常化すると、官と民の関係が一気にひっくり返った訳で、こういう風に考えると日本の犯罪組織もそろそろ終わる気がする。最近警察による犯罪組織や過激派への締め付けが以前に増して厳しいのも、社会や権力が正常化して彼らが用済みになったからではないのかと思う。

ここ最近、おもしろいと思うサブカルに、鉄道ではなく車で表現したものが多い。テーマがとがっていて、見所が新鮮である若者向けほどその傾向がないか。で、具体的にいうと、たとえばばくおん!!である。子どもの頃流行った頭文字D湾岸ミッドナイトも車だ。

ここ1年程度のサブカルをはじめとするコンテンツは「サブカル文化」ではありながら非サブカルに踏み込んだりすることが本当に多い。民間を中心に広い世界各文化の寄せ集めになっていて、最近のアニメはモータリゼーション推しが激しいものが多い。

そのモータリゼーションを罵っているのが鉄道会社というのもどうも引っかかるし、現在人気が復活しているのがモータリゼーションというのも、なんだか反作用ぽいものを感じるのである。

 

大企業が経営破たんすると下請けもあおりをうけて潰れるように(もしくは逆に末端から潰れて本体が陥落するように)、サブカル秩序や鉄道が日本の天皇制と裏社会のように共倒れする可能性と言うのが2016年には存在するんじゃないか。その両者から強烈な支配を受けている古い社会構造の最後の最前線が、日本の私鉄だ。

ネトウヨに限らないネット原住民全般のシニシストの傾向として、私鉄を冷笑しながら「日本は大丈夫だから安心しろ」てな感じの愛撫というか"負の自己弁護"をする人が多く居て、そういう人は最近の政治家を過激な言動をくさすことなく普通の政治家として評価しつつ、大抵、PC崩壊危機論に流されている。

そういう連中の何割かはおそらく底辺の自覚もない人たちなんだろうが、知性もはつらつとした覇気も全く感じない彼らの異口同音の主張によって道連れにされたいだろうか。

私もまだ30代だから今後の人生があるので、腐敗した人たちのように「私鉄と共に死ぬ」つもりはないし、私鉄が滅んでも生き延びるはずだし、もしもできれば私鉄を殺すことなく21世紀らしい形にアップデートさせて子や孫につなげたいつもりがあるのだが、そのために重要なことの一つがマス・トランス・ラピッドへの理解ではないか。

 

日本の鉄道がかつて持っていた「近代化した高度な公共交通」のポジションは、私鉄がなくなっても、市民を介して公的機関や外資の連携で実現できるし(すでにかなりそうなってるかもしれない)私鉄がなくなっても道路や都市鉄道やJRとかで分散すればいい。

経営主体が地下社会であれ公権力であれ公共交通であれば、鉄道は鉄道だったわけで、鉄道オタクや地元民は地元のシンボルを失うわけではない。仮にJRが別の運営主体になっても、山手線は山手線、銀座線は銀座線だ。つまり、帰属社会の喪失にはあたらない。誇れるほどのシンボルを持たない怠惰なものは別だが。

ネトウヨの皆さんにあえてフォローしてあげるとすると、この日本には創業100年を超える老舗企業はごろごろある。つまり「日本すごい」だ。江戸時代から続く国なら2回ほど国家の終焉を経験しているわけだが、会社が絶えることはなかった。例え日本が消えても地元は残るし、社員や勤務先を失うわけではないのだ。

江戸幕府が滅び、第二次世界大戦後が終わったからこそ日本の治安維持は自警団と裏社会から平時と同レベルのマトモな警察・軍隊組織に復帰できたし、日本の昭和ビデオでよく日本人暴走族が乗っているバイクを売っていたそのメーカーは、現在世界各地で静粛性・環境に優れたバイクを販売しているじゃないか。

つまり、国家のその先に希望を見出した方が、20世紀の古い因習まみれでマンネリで何年経っても変わり映えせず悪くなるだけの「負の日本的現実」と共に心中するよりはるかに建設的発想だし、なにより未来がある。ということを私は声を大にして言いたい。

鉄道は魅力ない文化・オワコンか?

とあるネットユーザーが調査した、好きなカルチャーのランキングで、鉄道は最下位になったというニュースがネット空間に流れた。
このランキングによると、最も魅力の低い文化は鉄道で、ブービーがスポーツだという。

ところが誰も触れていないのが不思議だが、このアンケートはインターネットによるもので、しかも対象となるカルチャーが、映画ドラマ・アニメ漫画小説・鉄道・自動車バイク・DIY・スポーツ・ネット・雑誌の8つ限定なのである。

このう自動車バイク・DIY・映画ドラマはもとより王道であるし、映画ドラマ・アニメはマスカルだ。
ネット・雑誌・小説はメディアであるが、自動車バイクは世界共通の文化である上に、対象となるものが広い。今流行の萌えは自動車・バイクであるが、イメージ的にはアニメ漫画小説だろう。
こうしてみると、下位ふたつを争うのはスポーツと鉄道になることは、その前からわかっていることだ。

それにサブカルクラスを比較するのなら、当然、ゲーム・ショッピングも対象にするべきであろう。これらを含めれば、想像ではあるが、鉄道は中位にランクされることになるだろう。

ひとつ謎なのは、この調査はネット原住民空間が行ったことだ。鉄道より文化知名度が高いものを揃えて比べれば下位になるのはわかりきったことなのに、わざわざこんな自虐的なランキングを作る意味が不明だ。アンケート実施者はショックを受けているというが、初めから最下位になるようなランキングを作成しておいて何を言っているのだろう? 
最近の鉄道は公共交通性を削ってまで、大金と時間かけて観光鉄道の整備をしたいなどと言っているのだ。思惑でもあるのかと勘ぐってもしまう。

実は鉄道は文化面においては非常に魅力のあるものだ。このイメージの悪い日本で、鉄道を訪れるたびに、サブカル的列車がどんどん増えていくのを見るにつれてその発展のスピードに驚かされるばかりだ。
しばしばネタにされる「JR九州のD&S列車」も、クルーズトレインを運航する段階になり、そのアングラ臭いネーミングとはまったく異質の超近代的なカルチャーに変わっていた。
JRの他にも、私鉄に目を向けると、非常に活気のある列車も多く、一時期ほどの魅力のないテレビドラマのイメージからは程遠い。鉄道の文化の賑わいは、消費者人口で大きく上回る自動車バイクよりも上に感じる。
そして日本各地には鉄道博物館などがあり、来年にはJR西日本でクルーズトレインが開業する。

ただ鉄道というイメージが頭の中で形作りにくいカルチャーであることは言えるだろう。だがその「とっつきにくさ」を越えれば、鉄道という文化は、楽しむには十分な魅力のあるものだと言える。