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ボンダイ(ボンK日報)

あれやこれや

日本の道路交通政策に関する研究+社会運動系オフのアドバイス

日本の自動車交通指針はあまりに間違っていないか。列挙するとこういうことである。

 

①自家用車・バイクを排除する→「いつか使うとき」が来たときに却って戸惑うことになる

②家庭でルールを作る→そもそも父母がモータリゼーションに疎い場合家庭ごとの差が生じてしまう

③学校や地域で取り組む→堅物老人たちが自動車のあるべき取り組み方法を知っているわけがない

 

 もし仮に不健全な暴走族や暴力的・不道徳的なり過激な団体を排斥しても、たとえば大人の男子から私欲は除去できず、抜け道なんていくらでもあるわけで東アジアの人権団体みたいにいたちごっこが発生するのみである。

 大人が取り組むにしても、父母やたかが地方公務員の教師や自治会の老人に自動車に精通した知識なりモラルがあればいいかもしれないが彼らはみんな下記のレベルだと認識した方がいい。

 今(2015年)から10年前になるが、私が大学生の頃、私の知人は「自動車を乗り回そう」と本気で言っていて、メチャクチャな場所に着いては悪戦苦闘していたため、よく家族が手伝いをやっていた。

 彼が自動車の免許を取得したのは2005年のことだ。つまり、それ以前まで車での移動そのものが存在せず、彼は「鉄道」のみを利用。生まれて、何十年も鉄道と自転車だけを乗りこなしていた人間が、突然今まで利用したことのない自動車運転のことを考えるよう促されてもついていけないわけである。鉄道と言うのは決して地位の高くない交通機関だ。もしも立派な人なら自動車ユーザーになっただろうが、そういうものになれず、でもキチンとした交通機関が欲しい人間が使う交通機関であるから、サービスの質は高くない。

 

 日本の自動車・バイク指針の3つのポイントは自動車性悪説に基づいている。しかしそれは、木を見て森を見ない話だ。

 たとえば2ちゃんねるは荒んでいるだろうか?普段は穏当な電子掲示板である。そこが悪質ユーザーによって荒らされるのは国際事件が発生した年のみである。しかも、毎年ではない。ネットユーザーとしても当局としても荒らしや迷惑行為を全滅させたいのは理想でも、現実には難しい。そのため時間をかけて長年対策した結果、2ちゃんねる発の犯罪者は2000年代に比べると激減した。かなり下火になっていた2010年代前半ですら、犯行予告や声明を掲載するDQNがいたりしたが今はそんなことができないほど委縮させている。あるいは衰退している。

 

 自動車・バイクも同じことである。「あるTPOでなければ生じない害悪」が全てだと思った上で、その害悪を寄せ付けないために行う対策ではダメではないか。つまり自動車やバイクを持ってもいいが日常生活での利用は制限するというような今の指針は「未成年は2ちゃんねるにアクセス禁止」と言っているようなものである。それは、商売絡みの宣伝をする人や日本人にとっても、純粋にネットを使いたい若者にとっても良くないことであり、非常にお役所的で文化的な発想ではない。

 

 今の日本に「ヤンキー」「暴走族」は存在しない。私が幼い頃にはまだいくらでもいたが、正直、物騒だった。暴力団とか極左暴力集団を連想するもので、旗をなびかせて変な音楽を鳴らしてい集するさまは明らかに異質だった。うさんくさい「愚連隊まがい」の集団に見えた。

 不景気で遊べなくなったのかもしれないが、いまはコンプライアンス・モラルの時代になっている。仮にも社会人である若者が、世間を威圧する行為をしてはいけないのだという風潮が出来あがっている結果、こういうものが表社会から消えてなくなった。

 つまり、きっと役所とかも建設や祭事の依頼をするであろう団体が不健全であったことや、そういう集団がいくらでも走り回っているこの実態があったことが、彼らを許すような空気になってしまい、グレる的な「にわか悪者気取り」をこじらせた男女が行先も分からぬままにバイト代をはたいたサークルで町中を騒がせていたのだ。
 今日本の交通で必要なことは、コンプライアンス的空気作りである。

 それはすなわち「公共交通の聖域化」である。たとえばどこかのJRのような公共交通的に無意味な特急とか、公共交通の観点から外れるようなことを、即時に規制すればいいのだ。

 たとえば都ないし市交通局、公営鉄道、国鉄など、そういう然るべき立場の人が自省したり、もし発言をしようなら同僚や国民から批判を浴びて謝罪をするような、そういう世の中にすれば、自然と消えるのである。

 

 アメリカを見てほしい。

 20世紀前半の車社会前のアメリカ鉄道は「総私鉄」のようだった。公共交通であるにもかかわらず、商売主義や無意味な列車の運行、不動産売買、公営交通への妨害なども多かった。それが、ニューヨークなどと言った普通の大都会でも当たり前に存在していた。東海岸のみならずアメリカ鉄道界全体の風潮だった。アメリカは当時から鉄道大国。地方に行けば近代交通そのものに疎い地域があるのも当たり前で、都市部であっても国鉄が元気だった日本とは違っていた。
 しかし今のアメリカは、そういう質の悪い交通機関を「地方」に封じ込めることができた。粗悪な業者は差別化できている。

 

 アムトラックなどの有力な鉄道路線を見ると、みんな普通の人みたいな感覚で、そのへんのおっちゃんや主婦とかが鉄道そのものを楽しんだり、ビジネスマンが仕事の備えをしている。大都市部でも、古くは大阪や最近の東京の私鉄のようなおかしな装飾をした電車が走っていたり、JR九州のような公共交通の趣旨にそぐわない列車が多数走っているわけでもない。

 

 ちなみにだが、日本で「車社会」が主流になったは1960~1年あたりからのわずか30年間にすぎない。1959年以前は車社会すらそもそも存在していない。当時の車社会は、皆無ではなかったが、それはなかなか見つからない暗部にあり、県内をくまなく列車やバスでめぐって寺院を探すような感じでなければたどりつかなかった。(ゴミ屋敷と一緒で、「住人」は気づかないため絶対に改善しなかったが・・・)

 

 私はLinuxパソコンを自宅で楽しんだ経験がある。「WindowsMacか」の時代に、パソコンのジャンク品と中古品の寄せ集めでPCを作ってネットやゲームをやったりしていた。高校の同級生をみんな家に呼んでフリーゲームで遊んだり、ビデオゲームの攻略サイトを見ていたりしていた。野球・サッカー大好きな坊やも数学大好きな坊やもアニメオタクも、みんなLinuxが面白いものだということに気づいていた。今で云えば「スマホゲーム」をアプリサイトでダウンロードしてやりこみ合戦をして講評会をするような時代だった。

 

 今、海外や日本国内の観光をぞんぶんに楽しんでいる日本人って、それと同じことなわけで、この行為自体を否定するということは、いかに世の中にとって損失であるかを「そもそもビジネスに疎い大人たち」はよく考えた方がいい。昭和時代の「自動車社会は交通への冒涜」とか言っていた頃に比べたら進歩しているが、けっきょく老害である。

 そしてもう1つ。現代の「リア充原住民崩れ」も改善が必要だ。若い頃はそこら中にいる今時の大学生みたいに貧乏旅行などをせず、まるで一部の偏狭系オタクみたいに不気味な感じで部屋の周りにとじこもって非行や車両の改造に熱中し、不良学校やスラム街でのケンカなどで暴れまわることで発散するべくストレスをためこんではバイクのスロットル・クラッチ・ギアシフトやホーンスイッチないしネオンのスイッチを無造作に操作してうめき声をあげてカンシャクを起こしたり、あるいは「半グレ」として迷惑を書き散らして発散し、青年時代のそういう破綻した性質をそのまま引きずって面倒な大人になりつつある、目立つ顔に皮膚に絵がいっぱい描かれていてチーマーやAV女優みたいなスタイルをした人たちが、自動車交通に対する日本人の印象が外国人や1970年代には考え付かなかったようなメチャクチャなものになってしまった責任を取るべきだろう。


 日本の道路経済をガラパゴスで貧困なものにするリア充原住民系の人達は、上下の世代とほぼ同世代ながらも自動車・バイクをほどよく楽しんで非行などに一切染まらずまっとうに生きた人たちの良心が封じ込める必要があるのだ。

 

 近頃の日本における、ネットのオフによくあるのが「迷惑による地元民などとの対立」である。

 これは一見すると逆効果かもしれないが、むしろこれこそがオフの長所だと私は思う。

 日本の社会ソフトやマナーは急な社会の変化に追い付いておらず、ただでさえ、古典的な慣習にうるさい。そこをオフが堂々と占有して練り歩き、近所ががやヤジするわけである。おのずと誰もがオフを無視して避けることができず、その「当事者」になってしまう。

 そこでは2パターンの反応が出てくる。1つは「市民運動やネットのオフそのものに嫌気がさすパターン」で、これはいわゆるネット原住民の冷笑系に繋がるものだ。しかし重要なのはもう1つ「迷惑が起こる原因の社会のソフトの旧さに腹を立てるパターン」だ。

 

 もともと「日本の社会ソフトは問題だ」と言う認識を持っている人であれば、その問題が改善しないからこそ手段としての「迷惑」が生じるということに一発で気づかされるわけで、その「感覚的な気づき」の合った日本人や外国人やお役人に対し、課題についてうまく言語化してリードするアジ演説ができれば、こっちのものだろう。

 いわゆるリア充をはじめとする文化的な日本人の多くは「そもそもが社会の多様化に追い付いていない社会ソフト(たとえばマナー)事情」に憤っている。外国人も多いのに、都会のソフトがそれに対応できず、たとえば長い電車の中で携帯(スマホ)通話ができない。でも国際化にともなう社会ソフトを整備するための改造が全く行われていない。こういう当たり前すぎて空気のように無意識な存在になっていた日常の社会問題に急に気づかされるわけである。

 

 SEALDs(今でいう市民連合)や在特会あるいはいわゆるスカっと系のDQN探しや怒りの爆発をするなどさらに運動を拡大させたいなら、どんどん出張デモ・出頭オフを日本各地でやるべきだろう。できれば都心部を選び、地味だけど外国人の多く、複数地域の玄関口でもあるターミナル駅周辺のほうがいい。

 東京都ならたとえば秋葉原・浅草より渋谷・池袋の方が断然いい。秋葉原と違って渋谷には特別変わった名所がない。渋谷の立地点は、東京東西・神奈川県方面のちょうどほどよい交通の要所にあり、私鉄・地下鉄・JRがそれらをつないでいる。当然多くの公憤を抱えた人がここを経由するのである。秋葉原・浅草は目立ったターミナルがない。一方池袋は渋谷のような地味な街ではないが国際化が進んでおり、地上に上がる客も多いため、ここにも公憤を抱えた人が集まってくる。

 ほかにも、横浜や埼玉もいい。とりわけ埼玉は文化事情が悲惨で常に外国人の群れも差別もひしめきあっていて、やはり北関東・南関東の分岐軸にあたる。愛知県なら豊田、豊橋、岡崎あたりもよさげだ。大阪も生野がいい。

 

 そういう華やかな地域で定期・不定期的にデモないしオフを行って、もしも2度、3度とそれを見かけたら完全に誰もが当事者になるのだ。この拡大力はかなり大きいよ。