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ボンダイ(ボンK日報)

あれやこれや

日本の鉄道公共交通が落ちぶれた原因は旧態依然と融合した「サブカル共同体」にあり

鉄道 社会現象

趣味離れ、娯楽離れ、過激派化、つまり「大衆文化の総敗北」が濃厚になっている2010年代だが、なぜこんなことになったかというと、その原因は今の大衆文化を見ればわかる。サブカル臭さが酷すぎる。

たとえば朝日新聞の「ひと欄」は以前は各界有識者のみが出てきたが、今ではお笑い芸人やネットがらみのうさんくさい人間が平気で出てくる。オピニオン欄でポストモダン芸人がだらだらとサブカル無駄話を開陳することもあるし、社会面や時事の硬派な話題に無理やりAKBをねじ込むことも多すぎる。

最近の鉄道を見るとやはりサブカルであることに気づく。「公共交通のことを考えていないようなあからさまなネタ消費」みたいなコンセプトであることが多いし、鉄道オタクの間でも賛否が分かれている。ネタ消費要素を抜きにすると、どれも恐ろしいくらいマンネリ化している。

JR九州などの私鉄が国民に嫌われる原因は旧態依然と融合した「サブカル共同体」にあるということに気づく。これはもっといえば「平成の健全なカウンターカルチャーの敗北」に原因があるのだ。JR関係者も鉄道オタクはその辺しっかり認識してほしい。鉄道オタクが叱らなかった結果今がある。

「JR」は古典私鉄を殺せなかった

1990年代になぜJRが社会現象になったのかを思い返してほしい。それは、国鉄時代にはありえなかった洗練性があったからだ。既存の私鉄のそれよりも良い意味でずっとあか抜けていて、新しい時代の新しいセンスがコンセプトに、車両に、駅や営業にふんだんにあった。

JR東日本の列車は1990年代の私鉄と異なるパラレルワールドのようなものであり、「こういう未来だったら楽しいよね」という提示があった。そのくせ、並行する古典私鉄は古典的そのものであったと記憶している。

当時を振り返ってみると、JR東日本の列車と東武の列車は同じ国の同じ時代の鉄道とは思えなかった。普通車の混雑ぶりに特急を利用したトラウマのあったのが記憶する最古の東武鉄道利用だが、車両もダイヤも運賃も妙に昭和臭かったと覚えている。今見ると、やっぱり古い。玄人ホイホイである。

通常の常識で言えば、1990年代の時点で以前から進歩がなく、玄人ホイホイの古典的な古い私鉄こそ、2016年にはとっくにJRに負けている必要がある。しかし現実を見ると、JRのほうがよほど敗者依然そのもので古典私鉄の下僕みたいな感じである。

今の鉄道交通(特にJR)はサブカル臭いのである。それは観光列車にヤンキーがやたら没頭する気色悪さを見ればわかる。車両もやたらけばけばしい。JR東日本も観光列車重視でサブカルだ。サブカル、サブカル、サブカルなのだ。

JRがこのような体たらくになった原因はまさにそれである。車社会の横暴に怒りを爆発させてJRを作ったはいいが、それよりもさらに華やかで洗練された未来を提示できなかった。そのすきに淘汰されるべくベタをサブカルが乗っ取ったのだ。

ポスト車社会が死んで国鉄が生まれ変わるという顛末

1970年代を振り返ってほしい。私は詳しく勉強していないが、当時は陸上交通界にパラダイムシフトがあった。不便かつ安心と信頼の鉄道中心から、便利な交通手段である自動車へのスタンダードの転換があった。これはまあよかったのである。問題はその後だ。

道路交通は「質の高い車両や道路であり、時間帯に邪魔されない公共の交通手段」であるべくインフラのはずだった。しかし例えば今の地方の幹線道路でとくに休日のそれを見てほしい。ほとんどが遊び場である。そして車両は腐れ改造車で、ポスト珍走団仕様車さえある。これじゃあ車社会が滅ぶのも当然だろう。先祖がえりする地方である。

鉄道はどうか。実は鉄道は、本当なら経済成長や社会発展と共に合理化されてよいはずなのだが、2000年代以降一気に「ポスト1930年代化」している。第三セクター鉄道もそうだが、とにかく明治時代の鉄道網を目指すかのように鉄道会社数がインフレ化している。何よりひどいのが東北本線沿線だ。

サブカル臭い観光列車が旅客船を走る光景が今や当たり前なのだ。西日本ですら私鉄はレームダック化が進んでいるようだが、東日本では逆に息を吹き返している。鉄道オタクがヤンキー化している。これは悪夢ではないか。

で、西日本の私鉄社会がそのまま東日本に横流しされるように、大阪病が東京に転移し、旧態依然を掻っ切るべきカウンターカルチャーが「サブカルという衣をまとった旧態依然」によって潰されたのである。これがすべての原因だ。

日本的古典性と権威を「サブカル共同体」は乗っ取った

2000年代の鉄道におけるサブカルはまだましだった。日陰者らしい、ちっぽけな空間にあった。都市部でも精々東京から離れている地域を走る私鉄線とか、世間から忌憚される空間にだけあった。当時のメインカルチャーが、今、死に体なのである。

つまり「1960年代以降」のメインカルチャーにあったカウンター性、国鉄的なものを拒んだ発想。封建時代を連想し、日本的古典共同体を連想し、何より国鉄という権力を拒否した、あの健全な「よりよいものを求める」発想が、今風前の灯火にあり、日本の鉄道界隈が腐っている。

結果公共交通的私鉄の最底辺がJR九州(ついでに西武・近鉄)で、最も好かれているのがあのポスト国鉄こと東武JR西日本(もしかしたらJR北海道JR東海名鉄・南海も入るかもしれない)である。特に、JR東日本・東海アンチを受け継ぐ懐古趣味の人たちは、本当にこの現状を危惧されたほうがよいのではないか(笑)。

日本的古典性と権威を団塊以下の大衆が拒絶したのは良かった。それに代わる文化を作ったまでも良かった。しかしそれが息切れした時、ちょうど世代交代を迎えた「国鉄的なる存在」が、隙をついてサブカルに乗っ取られたのである。サブカルたちには平成前半(もうじき平成は終わる)の主流文化へのルサンチマンがある。

それはいわば、ネットジャーゴンを見ればわかる「リア充」叩きというやつだ。1999年以降のネット原住民空間が嫌悪したスタンダードの文化が今は瀕死状態にある。ネット原住民は逆張り変態なので、みんなが軟派なJRを楽しんでいた時にお堅い国鉄を求めていたような天邪鬼である。なので、こうなってしまった。

昔は1億総スタンダードだった「日本的古典性」と、多くの国民が知らなかったり知ったところで気持ち悪がったゲテモノである「サブカル」とをくっつけた要因は世代交代だけでない。両者に共通しているのは畳精神であることもあえて注目したい。

とりわけ1960年代の第一次モータリゼーションあたりから、「日本的古典性」を脱する上で重要な要素が「欧米を見習う」ということにあった。畳文化のウチと相反するヨソの国で、しかも土足文化である。そういう遠くの西洋の、より主流的で、より最新のものを本場流で取り入れ、あるいは見習った回路があった。

つまりサブカルのいくつかの「リア充嫌い」の人たちは、心ではそのつもりでも本当は「鬼畜米英」的な西洋嫌いに過ぎない場合もあるのである。珍走団が元はアメリカ文化のくせアメリカ的要素を拒絶し、反権力よりも御用を求めたがる特殊人間ばかりなのも同じことである。だからガラパゴス化してしまった。

本来であれば、団塊世代より以上の世代と以下(20世紀型オタクを除く)の世代を分ける最大の要因が、畳の上で死にたい願望の有無であり、畳精神を脱却して外来文化を求めることが現代の特徴だったが、サブカル層に限ってはそれが例外だったわけである。その田舎者らしい「保守性」が今、極まっている。

外国を見習えという理由はまさにここにある

私はよく「外国に抜かれる日本」の現状を憂いている。特に2000年代以降は、日本の中にあったスタンダードの発展の流れが、アジア辺りにそのまま転移しているように見える。そう感じている人は自分だけではないはずだ。2000年代までアジアは日本を手本にしていたが、今では欧米を見習っている。

よくネトウヨが中国や韓国を見下す理由の1つが、かつて中国や韓国は日本を手本にしていて、それがパクリだといわれたからだ。しかし日中韓の文化を見ると、日本の文化は2010年代を境に中国か韓国の後追いになり、欧米水準を見習った流れが消えたのに、中国韓国はむしろこの時期から欧米を見習っているのだ。

中国韓国は嘗ては鉄道は社会の嫌われ者だった。鉄道好きと言うだけでとんでもない差別を受けていたこともある。今はそれと間逆だ。欧米と同じ鉄道サブカルチャー浸透国で、近未来的な技術などにも挑戦しているように見える。

日本における鉄道カルチャーは本来「中国や韓国と違い、むしろ大衆にも受け入れられている」のサブカルチャーだった。なので公共空間でも流せた。しかし、今の鉄道好きは露悪趣味だ。一方、中国と韓国は、2010年代以降の方がよほど寛容的になっているのであり、ここも違った。

ポストモダンの人たちはよく「車カルチャーの時代が終わったのは新自由主義の影響だから」と思い込んでいて、鉄道が大体の文化であるかのようにはき違えている。しかし現実は間逆で、最低限インフラに関しては何から何まで日本より先んじて日本より秀でていた。その中国と韓国が今公共交通強国になっている。

ポストモダンたちは、マスカルチャーを見下しながら、けっきょく自分たちこそ死に体の日本ローカルのマスカルチャーを率先して乗っ取って、その権威主義があるのではないか。主流大衆は今も昔もサブカルには無関心である。反社会的みたいな存在がのうのうと生きている現実を納得できない人は多い。

2013年を元年とした車社会ルネサンスは、特に大衆層でリベラルな存在が、欧米を見習った鉄道社会が日本国内にないから仕方なく昔のソレを代替物として用いたものではないかと思う。なので最近のサブカル好きには車・バイク好きを兼ねた人がものすごい多い。2000年代までのサブカル嫌いは現実を知らないのである。

ちなみに今のサブカル文化をリードしている外国の大人たちは、日本だったらそれこそ初期サブカル世代かもしれないが、民主化運動の世代だ。軍事政権を打倒し、民主主義を勝ち取った当事者なのである。独裁者の所有物だった古いマスカルチャーを破壊したのも彼らである。

今の日本で必要なことは、「暴走族旋風」で不良が自動車・バイクサブカルを支配したような流れに起因するポストサブカル化する旧態依然サブカルと同じような一連の流れを断ち切ることである。タイトルにある鉄道の場合、観光列車を公共交通から分離することで、鉄道のサブカルを適切な位置に戻す流れを作らなきゃいけない。