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ボンダイ(ボンK日報)

あれやこれや

車・バイクから「娯楽の価値」がなくなりすぎている

車・バイクは、その誕生経緯以来ずっと、鉄道をフォローする乗り物そして畜力や人力に変わる乗り物、それ以上に娯楽の道具として発展に尽くしてきた歴史がある。世界的に有名な外資自動車産業だってその技術力は日本の鉄道顔負けだ。しかし、その車・バイクから娯楽性の排斥が起きるのが今の時代だ。

どうも、車・バイクが「国民的娯楽」であるとも思えなくなってきている。実際車やバイクは公共資産の印象しかないのだ。やたら規制や基準が細かくなっているのも、比較的寛容な鉄道に比べると敷居が高いように思える。

あの「格安駐車場駐輪場ブーム」とか「自転車を卒業した都市の中流」の掛け声は、価値観の変化の裏返しなんじゃないか。私みたいな日陰者の特徴は、他人を罵倒する時に自分自身のコンプレックスを相手にぶつけて開陳してしまうものだ。社会が本来持っている本質的な価値や優位性の喪失が見える。

車・バイクの要素を代表していたものが「楽しみ」でないかと思う。まだアジア車が知られていなかった時代では、軽自動車や中型バイクひとつとっても楽しさや個性にあふれているという良いイメージが日本人の中にもある。しかし、近年では、そのボロが出て来ている。外国車やマイナーな車種はぜんぜん楽しみがないと。

いまの2016年の日本の常識としては、日本を代表する多様性娯楽は道路の乗り物より鉄道だろう。やたらビジネスに積極的で、とくに差別もない。リベラルな社風だ。それ以外にも、多様性が共存して繁栄するものといえば日本にはサブカルもある。

そしてことし私鉄化したばかりのJR九州は日本発のクルーズトレインを生んだとして話題を呼んだ。地方の企業だ。国鉄自動車産業の影響の残る関東で初めてこれが実現することなどありえるだろうか?どうも私には自動車・バイクより鉄道業界の方がそういう意味でも進んでいるように見える。

鉄道は世界共通のサブカルチャーになるか?と言う前に、韓国やロシアでも鉄道趣味は普通に合法だし、鉄道の歴史の長い国はたくさんあるのである。アメリカ合衆国においても、膨大な歴史の中で階級社会などが構築されて保守的で封建的な私鉄を脱して車社会化が進んだ国だったが、今のアメリカの鉄道社会は進んでいる。

良く言われていることだが、自動車やバイクは多国籍産業である。本社の国、考え方はさまざまで、同じ欧米でもアメリカ製やフランス製でコンセプトが大きく異なる。つまり中古車にいけば外国者に出会えるし、日本製だって軽自動車ひとつとっても多様性であふれているのだ。

自動車と言えば技術革新が進んでいる印象がある。しかしそれも最近は事情が変わっている。1980年代のまだ国鉄が健在だった時、排気ガス改善に取り組めた乗り物はここだけしかなかった。しかし今、船舶・航空・鉄道などでもエコ競争をやっている。

エコ競争だけではない。豪華さの売り出しも自動車一強の時代もあったが、2000年代以降は、JR九州近鉄といった日本鉄道業界で始まった娯楽列車が全国的にヒットして自動車・バイク業界に輸入され、そして自動車・バイクフォーマットが後追いで作られることも当たり前になっている。

近年の鉄道は田舎での売り上げが向上しているという。私は走るんです世代だが、あれはもともとJR東日本の車両で、その先端性も鉄道業界でヒットしていた。企画化もJR東日本発祥で、当時は関東地方各地で鉄道工場が盛んだった。だが、JR東日本で使われる車両は地産地消とは限らない。

最近サブカル化で話題になったオートバイだが、珍走団が絶滅したのがつい昨年のこととはいえ、それ以前から需要が伸び続けている。一時期ほどではないとはいえ、国内最大手のあの小型バイクも新車開発は健在だ。

田舎の娯楽も「車社会の時代」であれば自動車・バイクが一番強かったが、いまは鉄道の時代で、このような娯楽に熱狂するリア充は今の方が盛んであるし、有力なイベントは都市でも行われているので、今や鉄道は消費物の1つにすぎないんではないか。

最近のオタクは、鉄道を好むオタクを「邪教の教徒」だとみなす傾向があるという。これは2000年代にはありえなかったことだ。後半はともかく前半では大都市部でも珍走団のイメージが大きく、若者からの印象は低かった。当時は都会の中流でさえママチャリが元気だった。

だがやがて珍走団が滅亡を迎えるとまず上流階級からママチャリが姿を消した。いま日本各地で、高校生がオートバイを、大学生が軽自動車を楽しむ風景がふんだんに広がっていて、30代の社会人になって車に疎い私達がよほど田舎者ライクで遅れた気がする。それくらいに現実が変わっている。さて、車・バイクの価値とは。

近代の日本の都市発展は民間鉄道外車がリードしたが、最近では都市部を中心に売り上げが頭打ちになっている。これは混雑緩和でも人口集中の結果でもない。大都市部でもバスや航空機の乗客数は増えつつありマイカー(特に軽自動車やオートバイ)は数が増えているが鉄道の乗客数は頭打ちになっている。

自宅から近い東京都中西部でさえ公共交通が元気なのにオートバイ所持が解禁されているのにはがっかりした。鉄道は娯楽として活用され、自動車やオートバイは日用品に落ちぶれているというのは、最早その地域自体を含んだ日本全体の流れだろう。で、私鉄マネーによって繁栄したはずの地域がいまや道路が車地獄の十歩手前状態なのだ。

つい最近までファスト風土が地方限定の文化だった。この時はまだ都会の私鉄の存在感はあった。だが、いまや大都市部のダウンタウンすら、某家電量販店や某古物商など、ファスト風土由来のものだって多い。それありきではない。

もしも車やバイクが1960年代以来その追及を続けた「娯楽の価値」を捨てたらどうなるのか?災害や時間帯などのリスクに邪魔されない便利な道具であることしか誇りがなく地元の周辺の可視範囲以外の世界を全く知らない愚者はそれでも普段と変わらず生きていくだろうが、まともな主流国民が岐路に立たされる。

自分自身が障碍者ないし様々な意味での貧困者や異なる価値観などの持ち主である場合、車やバイクを捨てることさえありえるだろう。今の段階では鉄道は比較的不便な代物ではないのだから利便性に固執する必要はない。もといた乗り物が不都合だから道路交通に渡ったに過ぎない人たちは、同じように他所に渡るだろうと思う。

たとえばやっと公共交通が力をつけたJR東海沿線や仙台なんかそのようになる可能性が高い。インフラの立地の都合もよく、名古屋や仙台などはもともと道路が広いし、地下鉄は路面電車の跡地を走っているから使いやすい。鉄道社会の成り立ちの歴史を学ぶとまさに世代交代の歴史だが、同じことが続くだろう。

そうやって消費者が移動し、生産者が移動し、モノが移動し、カネが移動し、最悪鉄道業界が空洞化すればどうなるか。私鉄社会自体の斜陽化である。日本では戦後多くの開拓地で人口増加に目をつけた当時の田舎者が鉄道や住宅を誘致し、成熟してしばらくして崩壊したようなサイクルが起きるのではないか。

それでも沖縄や北海道を除く地方にとっての主要納税企業は「私鉄」なので、お金があれば車社会を邪魔することができるし、実際神奈川なんかはそういった歪なインフラ発展を続けて体面を保っているが、私鉄自体が公共事業として用済みになり、やがて単なる娯楽産業に落ちぶれてしまえば、私鉄ファンの居場所がますます減り、その先には何もないのである。

このように、車・バイク・私鉄に優しいないし厳しい評価を下したが、私はいずれも好きで、かなり憧れていて、それと比べ日本の特に鉄道の現実がそうなっているにも関わらず、公共の財産意外に値打ちがつかないものとしてひとくくりにされる現実には激しい嫌悪感しかないので、そのような悪しき感覚にあれほどの偉大な社会が染まっている現実が許せないのだ。