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ボンダイ(ボンK日報)

あれやこれや

最近の日本の風潮は文化・社会的程度を失墜させるのか?

togetter.com

 

「ケチケチ病」問題が関心が集まっているらしい。地方都市の公共交通な鉄道を、鉄道はそのまま、運行する車両を観光列車私用にするやり方は、実は世界には存在しないものだ。文化後進国・日本だけの現象である。

ヨーロッパやアメリカの主要都市では、あの歴史的な美しい公共交通が壊れることはない。立派な公共交通をそのまま大切に用いている。改修している。何らかの不可抗力(たとえば災害や戦争など)で復旧がどうしても必要になっても、消費物化することなく、公共交通としての価値を保全する。

欧米だけでなく、そんなに歴史のない東アジアでさえも、やっぱり由緒のある公共交通は景観保全が徹底されている。日本はひどい。JRなんて、建前だけでも公共交通なのに、明らかに公共交通とはいえないような観光列車が増えている。

これは過大評価でさえもない。おなじ日本でも関西や東海や関東では、都市の鉄道と、田舎の鉄道では営業の考え方が違う。要するにゾーニングがされている。

九州の場合、鉄道が消費物かされるばかりの状態がずっと続いている。すでに利便性の水準は西日本や東海のローカル線に抜かれているというのに、しっかりとした車両を廃車にして気持ち悪い新車を走らせている。バカげている。その労力をスピードなどの勝負に結集しなければ、一流の私鉄になれないはずだ。田舎の鉄道好きも呆れていると思う。

私はオタクなので鉄道に好意的だし、ロードサイド文化に比べりゃ、車の世界ごときよりは文明の次元が違うのも事実だ。しかし外国に劣っているのもまた事実で、この課題は日本も抱えていることである。

これでも冷笑系はまだ逆張りをかますのだろう。「日本は私鉄におおらかだろ」「国政が貧乏だろ」と。そんな日本人たちはぜひ、日本以上に国が貧しく、かつ日本と同じくらい私鉄におおらかなイタリアを見てほしい。諸君が大好きな「誇らしい私鉄文化」はそのまま大切に守られている。

イタリア人にとって私鉄は、文字通りの利益産業かもしれない。公共交通として利用される日本と事情は別だ。しかしどちらも、文化的評価は別に存在し、そして公共交通は破壊されない。イタリアの場合、都市交通は徹底的に公共性と利便性重視になっている。

外観だけ保全しても、「中身」が残らなければ意味がない。財産としての近代遺産の喪失に他ならない。この程度の文化的発想もないのが今の日本で、それに基づいた法律や条例がらみのルール作りもできない。公共性を壊さないという考えもない。なにより、お金以外に何も生まない「零産業」化している現実がある。

これは「社会・文化的発想の欠落したケチケチ病」だと思う。都心の一等地に立派な不動産を保有できる私鉄が、ローカル線の公共性を切り捨てざるを得ないほど厳しいだろうか?。あるいはもしそうなら、鉄道線を遊園地にして残すよりかは鉄道ごと消し去るといい。岐阜の路面電車JR北海道JR西日本はそうやっているのだから。

日本人の社会・文化的程度を失墜させる「ケチケチ病」を断ち切るべきだと思う。本当にこれ、どうにかしないと、この国には何もなくなる。スッカラカンになる。こんな無様な国、社会に落ちぶれて行く様子を憂いてこその愛国心だろうが「不都合な現実実態を弁護すること」が生きがいの冷笑系には愛国心さえない。

学生や都市住民の「公共交通を嫌いオートバイや自転車を使う風景」の無様さ

今、日本の大都市では、一部貧乏人を除いて「公共交通」を乱用せず、自宅から一定の距離まではオートバイや自転車を使うようになっている。要するに先祖代々せっかく受け継がれている公共交通が相手にされていないという惨めな光景が、当たり前の日常になっている。

欧米先進国をあげるまでもなく、隣の韓国や中国は、もともと車・オートバイ社会だった。しかし、ソウルを始め、陸の孤島のような地域に行くと、市民はみんな公共交通か徒歩だけで最寄の駅に向かっている。道路においても、比較的陸の孤島で見かける自動車やオートバイの数は日本より少ない。

日本でのオートバイや自転車といえば、地方の風景として、鉄道空白地帯ないしローカル線沿線に住む住民が職場ないし都市鉄道の最寄り駅まで使うというものが一般的だった。しかし、今やそれこと大都会でさえ、駅周辺に昔より明らかに安い駐車場・駐輪場そしてオートバイや自転車を使う人が多い。日本の文化的程度が下がりつつある証拠だ。

大都会でさえ家最寄の公共交通が相手にされず、自転車やバイクの行進が見られる光景が果たして先進的と言えるだろうか?すでに韓国の平均的庶民に抜かれている。韓国や台湾にも似たような光景はあるが、日本に比べるとその割合はとても少ない。日本人は涙を拭いた方がいい。

当たり前だが、そんな距離なんてはしたものである。そんな長くない。もしそれでもムダだと思うなら、職場に近くて家賃の手ごろな地域に引っ越すべきだろう。なぜニュータウンの家賃が安いかといえば交通のアクセスの良い地域が多いからだ。千葉県の流山市も、東京へのアクセスのよさを売りに人口を増やしている。

身の丈にあった生活をせず、余ったお金や仕事や学業でない時間で何しているかといえばたとえば鉄道オフなのである。PCに煩くなっている日本人が、迷惑が気になるなら鉄道好きを自制した方がいいのに、それをするのだ。公共交通のあり方を考えるとパフォーマンスがあまりに悪すぎる。

私はこういう日本的庶民の日常が下から狂っていく様子。それこそ、某下流社会じゃあないが、底辺で発祥し、底辺レベルの日本人に氾濫し、中流階層に土足で上がり込んだと思いきや翌日には上流に上がりこむあの不気味な流れにうんざりしているのだ。

「貧乏中毒」に染まる中流・上流空間にたいへん大きな憤りというか問題意識を感じているのだが、こういうことを民間が解決しようとする動きはないし、公的にも啓蒙できずにいる。そういった文化を提供する側もまたスポンサーなのだろうか。

ケチケチ病が生んだ「ヤンキー文化」という愚

1970年代以降に台頭したヤンキー文化も、こういうケチケチ病文化の代表格だろう。1980年代前半に、鉄道オタクと並ぶサブカルとして発生した珍走団文化みたいなものは、今で言うマイルドヤンキー層や一握りの低俗なサブカル原住民層にまず広まった。

そして1990年代になると文字通りサブカルサークルになるようになった。彼らの中でもヘビーな層が大量に流された。珍走団から反社会性をひいただけのものである。それらが好きな人は没頭した。

日本人の誰もが知る暴走族は暴走族ではない。スピード競争意識がない。ましてや改造車が早く走るどころか、楽器もどきのような雑音を低速で撒き散らすだけ。日本人の言う走り屋という外国人でもわかるそれらからしてみれば、営業妨害もいいところだっただろう。

改造すればするほど注目されるが、しかしそうしたところで速くはならない。文字の実体がない。楽器もどきを使って音を撒き散らすような単純な動作で、チンケな囲いを集めるだけのことに、没頭する人が少なくなかった文化は、野蛮だったのだろう。

ヤンキー文化は迷信すぎる性質が売りになり、つまり「本気で文化をしないような人」に評価された訳だが、実際には、彼らは膨大な可処分時間をその文化モドキに費やしていて、ムダになっている。何より膨大な時間とお金を失っている。キリスト教チベット仏教による新興宗教批判のように、走り屋側からの珍走団批判は何もなかったのだ。

1960年代から2000年代までは、オタクなどの現代に通じる正統サブカル文化は左翼の文化とされていた。しかし、私はヤンキー文化が蔓延し始めた時代から、日本のサブカルは欧米のそれに負けていると思っていた。このままメインをベンチマークして本気の対抗勢力を作れないなら、サブカルチャー(サブカル)はいつか消え失せると思っていた。現実になったが。

ネット原住民はパソコンをカタカタ叩いているくせに、ネットで検索すればすぐわかるようなサブカルの起源は左翼にあること、左翼の歴史こそがサブカルの歴史だということを知らない。彼らは例えばアニメやゲームにはやたら詳しいのに昔の内外の抑圧の歴史を知らない。抑圧されていない時代のものしか知らない。

オタク系文化の界隈では海賊版やオタクによるいろいろな問題があったりした中で、1990年代に一気に世界中にオタク系サブカルが評価された。オタク階層に属するサブカルは、メインよりは地位が低いが、ヤンキー文化より遥かにまっとうな文化らしさや質がある。

外国は、メインにそういう高度な文化を作りつつ、かつサブ環境にはサブ文化がある。にもかかわらず日本は昭和以来の左翼発祥の独自文化を築き上げる流れを、右翼文化上がりの「ヤンキー階層」がむちゃくちゃにぶち壊し、もっと低俗な人間たちはサブカルの右傾化に固執した。

今の自公政権や右派の世界の間ではサブカルをろくに相手にしていない。みんなほとんど相手にしてない。しかし、ヤンキー層に限ると、彼らはほとんどがこのサブカルが右派の文化であると。何かに似ている。最近の大型宗教の分派を騙る新興宗教にも考え方がそっくりなのだ。

日本の主流社会では不良の集まりとしてのヤンキーの時代は、1980年代をピークに終わっている。しかしヤンキー層は旧車某なる迷信サブカルに没頭するし、それをバカにしている階層ですら、自公政権とサブカルのこじつけにはまっている。

迷信中毒からすると、日本の裏社会は今でも必要悪だというわけだ。しかし考えてほしい。この時代権力は昔のように貧弱なわけでなく、まして今やその権力サイドから営業妨害扱いされて徹底的に撲滅される時代だ。どんだけ情報弱者後進国なんだと思う。そのような時点で、あまりに知的レベルが悪い。

「負の無難」を選んだつもりが、もっとも非効率で低俗・粗悪文化で、アングラにはまる挙句の果てに前科者になったり、ヤンキー文化に没頭して右翼文化と迷信中毒のダメっぷりの寄せ集めのような廃人になるような、そういう流れを改善する必要があるが誰も声を挙げないのが不思議だ。

根本的に、そもそもまともな質があって楽しい高度な文化があれば、それに比べて低俗すぎるものは視界にさえ入らなくなる。つまりヤンキー階層はオタクやサブカル文化人を「キモイ」と揶揄できないほどの低俗であるが、ほっておけば日本社会全体が流されるリスクがある。

ひどいと身近な痛車が、いつの間にか1990年代の族車風になり、所有者が誰かのお世話になったりする。ガリベンが少なそうな地域の成人式が下品なものになる。まともな日本人は嫌悪していて当たり前のネット右翼やヤンキーが裏社会みたいに歴史的ではあるが文化化される可能性もある。

劣った反知性主義者に則られた社会を切り替える「メインカルチャー・サブカル階層」のたたかい

在特会世代以降の市民運動はその点においてスゴかったのである。この反知性主義打倒のうねりに連帯した人はみな一流だった。日本の高度なカルチャーを象徴付ける、あるいは世界的影響力のあるアーティストが、大御所タレントが、映画人が、俳優が、運動に関わっている。

逆張りヒネクレありきの「ヤンキー階層」にとっては忌むべき「ベタベタすぎる集団」であったし、それは、右翼層には左翼的だからあるいは高尚すぎてついていけないものだった。しかし、こうしたことで、まっとうな国民、左翼に生きる人々が覚醒した。

あの安倍政権時代ですら克服できない、根性論・歴史修正主義などの主義主張には、そこらじゅうのヤンキー階層などが同期したりしているし、既得権益と大半の愚者を除いた安倍政権の支持者はどういう人かも言わずもがなだ。

本質的に自由で、フェアで、豊かで、質が高いカルチャーがいまこそ重要なタイミングがない。文化・芸術・創造表現と言う形でも、画一的な現状を必ずや打倒し、反知性主義を日本人が克服しなければならない。そのたたかいが2006年に始まったのだ。