読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ボンダイ(ボンK日報)

あれやこれや

現実問題としてシステムの終焉を考える

鉄道交通の変革がどうも1ステージ上に上がった気がする。D&Sの賛否の件と言い。ここまで厳しい意見は以前はなかった。

この手の意見があると、一般人は鉄道ヘイトをむき出しにするものだ。お前はもう詰んでいるんだから無駄な抵抗は諦めろと、そういう冷笑ね。でも、よくよく客観的立場に立って考えると、本当に必死なのは、彼らなんじゃないか。

たかが1つの産業。それも日本唯一の産業で、規模もバス会社などと他と比べ極めて小さい産業に対し、一般人がここまで必死になるのは、どうも常軌を逸していると思う。あの逆ギレも、ありえなかった。

 

JRは29年前に国の支配から脱却した経験がある。当時の国鉄は現在のJRよりも遥かに「いかつい存在」だった。しかし、ひるむことなく民ぐるみの抵抗をしたから、今日本のJRは民に帰属している。その国が道路交通をさらに増やそうとしている現実があるのだ。

本当は、公共よりも私企業の方がタフな存在なんじゃないか。今、交通機関権力を掌握しているJRだって、以前は公営だった。車社会で無残なほどにまで敗北して民営に転向したのは昨日のことである。それらは、何より田舎者が一番わかっているのではないか。

どうも私企業・鉄道の敗北よりも公共交通の終焉ということの方が現実として起こる可能性が高いのではないかと思う。2016年の日本人のうち、国鉄の終焉体験の記憶があるのは、40代以上の人とJRユーザーだけである。若手の国民は公共交通の終焉などあり得ないと思っている。

 

しかし、JRの歴史は29年程度しかない。その前の国鉄は1949年に設立され1987年に民営化と言う形で日本人によって倒された。一部日本人はJRは公共交通であると思い込んでいるが根拠となるのは多くの学者が実態を疑うJR会社法しかない。

国鉄が38年程度の寿命だったら、新生JRもその位すれば崩壊するんじゃないか。あるいは、それよりも早くに終焉を迎えるんじゃないか。ということは、JR北海道関連のTwitterにおける「JR北海道の終焉」と言う表現を聴いた時、ふとよぎってしまった。

日本国の傀儡企業であるJRが未来永劫続くと思った鉄道オタクは多分そんなにいなかったのではないかと思う。おそらくそういうドライな見立てが、今は日本に向かれていて、JR九州は、公共サービスの尊重を半ばあきらめ、ビジネス単位で動き回っているんじゃないか。

地方都市を中心に鉄道を見ると、新しい街が近所にあることに気づく。そしてその大半が、近代史だけをみても終焉経験のある新しい地域だ。仙台や福岡は国鉄が倒れた後に都市化が加速しているし、名古屋のように交通構造が大きく変わった地域もとにかく多い。

古い機関が、システムが旧態依然となって、硬直化し、保身に走り、利権ばかり作り、それと密接な集団も既得権にばかり蝕まれて、そういうがんじがらめになって自滅するだけなのに対し、新しいそれほど、新しい秩序を起こし、発展させたり、いい意味での競争や支援環境が充実しているように見える。

 

たとえばアニメというサブカルは、いまや日本最大の先進的なマスカルであり、世界に通用する文化だ。日本のアニメとドラマを比べると次元の違いに圧倒されるのだが、電車男というドラマが発表された2005年がまさにその爆発期だった。

中高年に話を聞けば、20世紀前、いや2000年代前半さえアニメがこうなるとは思わなかったという。40代や50代の若い頃はドラマの最盛期で、バブル崩壊後も需要があったから、しょうがない。下手すりゃいまだ下に見ている人が40代以上には少なくないかもしれぬない。

だからこそムキになって自慰行為みたいなのに明け暮れるサブカルアンチがあるのだろうが、しかし、考えてみればゲームでさえ、これほどスポーツに適した存在になれたのは、やっぱり韓国が日本のゲームを改良できたからではないか。

 

とはいえ、このところふとよぎるのが、日本の中間層はおろか新興富裕層さえ劣化しているような気がするということだ。ブラック企業やマフィアをめぐるあれやこれやは日本の持つ側の民度が一気に落ちぶれている結果ではないか。安倍首相もトランプ氏もまさに持つ層出身で、テレビ番組でも人気だった。

で、日本やアメリカの中で「社会主義共産主義復活論」がにわかに高まっているというのは、もしかしたら資本主義の終焉を予期した人たちの生存本能的な選択ではないか。貧乏人よりどっちかと言うと金持ちやエリート層にその傾向があるというのは、やっぱりその発想の方が正しいのではないか、と思う。

凄く陳腐なたとえだがこれ自体日本人もなんべんも引用してきたものだが「民間人による社会の監視」だって、実際に機能したのは幕末期や第二次世界大戦後など非常時のわずかな期間だった。で、やがて混乱が収まり正常化すると、官と民の関係が一気にひっくり返った訳で、こういう風に考えると日本の犯罪組織もそろそろ終わる気がする。最近警察による犯罪組織や過激派への締め付けが以前に増して厳しいのも、社会や権力が正常化して彼らが用済みになったからではないのかと思う。

ここ最近、おもしろいと思うサブカルに、鉄道ではなく車で表現したものが多い。テーマがとがっていて、見所が新鮮である若者向けほどその傾向がないか。で、具体的にいうと、たとえばばくおん!!である。子どもの頃流行った頭文字D湾岸ミッドナイトも車だ。

ここ1年程度のサブカルをはじめとするコンテンツは「サブカル文化」ではありながら非サブカルに踏み込んだりすることが本当に多い。民間を中心に広い世界各文化の寄せ集めになっていて、最近のアニメはモータリゼーション推しが激しいものが多い。

そのモータリゼーションを罵っているのが鉄道会社というのもどうも引っかかるし、現在人気が復活しているのがモータリゼーションというのも、なんだか反作用ぽいものを感じるのである。

 

大企業が経営破たんすると下請けもあおりをうけて潰れるように(もしくは逆に末端から潰れて本体が陥落するように)、サブカル秩序や鉄道が日本の天皇制と裏社会のように共倒れする可能性と言うのが2016年には存在するんじゃないか。その両者から強烈な支配を受けている古い社会構造の最後の最前線が、日本の私鉄だ。

ネトウヨに限らないネット原住民全般のシニシストの傾向として、私鉄を冷笑しながら「日本は大丈夫だから安心しろ」てな感じの愛撫というか"負の自己弁護"をする人が多く居て、そういう人は最近の政治家を過激な言動をくさすことなく普通の政治家として評価しつつ、大抵、PC崩壊危機論に流されている。

そういう連中の何割かはおそらく底辺の自覚もない人たちなんだろうが、知性もはつらつとした覇気も全く感じない彼らの異口同音の主張によって道連れにされたいだろうか。

私もまだ30代だから今後の人生があるので、腐敗した人たちのように「私鉄と共に死ぬ」つもりはないし、私鉄が滅んでも生き延びるはずだし、もしもできれば私鉄を殺すことなく21世紀らしい形にアップデートさせて子や孫につなげたいつもりがあるのだが、そのために重要なことの一つがマス・トランス・ラピッドへの理解ではないか。

 

日本の鉄道がかつて持っていた「近代化した高度な公共交通」のポジションは、私鉄がなくなっても、市民を介して公的機関や外資の連携で実現できるし(すでにかなりそうなってるかもしれない)私鉄がなくなっても道路や都市鉄道やJRとかで分散すればいい。

経営主体が地下社会であれ公権力であれ公共交通であれば、鉄道は鉄道だったわけで、鉄道オタクや地元民は地元のシンボルを失うわけではない。仮にJRが別の運営主体になっても、山手線は山手線、銀座線は銀座線だ。つまり、帰属社会の喪失にはあたらない。誇れるほどのシンボルを持たない怠惰なものは別だが。

ネトウヨの皆さんにあえてフォローしてあげるとすると、この日本には創業100年を超える老舗企業はごろごろある。つまり「日本すごい」だ。江戸時代から続く国なら2回ほど国家の終焉を経験しているわけだが、会社が絶えることはなかった。例え日本が消えても地元は残るし、社員や勤務先を失うわけではないのだ。

江戸幕府が滅び、第二次世界大戦後が終わったからこそ日本の治安維持は自警団と裏社会から平時と同レベルのマトモな警察・軍隊組織に復帰できたし、日本の昭和ビデオでよく日本人暴走族が乗っているバイクを売っていたそのメーカーは、現在世界各地で静粛性・環境に優れたバイクを販売しているじゃないか。

つまり、国家のその先に希望を見出した方が、20世紀の古い因習まみれでマンネリで何年経っても変わり映えせず悪くなるだけの「負の日本的現実」と共に心中するよりはるかに建設的発想だし、なにより未来がある。ということを私は声を大にして言いたい。