ボンダイ(ボンK日報)

あれやこれや

(ネタニュース)2018年で正月終了

関東地方1都6県では、2018年をもって正月を原則終了することを定めた、「正月3ない宣言」を含む関東市民憲章を決定した。

今回焦点となった、「正月3ない宣言」の内容は以下のとおり。正月に関するセール・広告の廃止、正月に関するイルミネーション・衣装の廃止、正月に関する行事の廃止。ただし、宗教上の理由に関するものに関しては例外となる。これらの背景には、正月がらみの犯罪行為などの悪用や、正月に首吊り自殺する者が後を絶たないという背景がある。

小売業界などからは経営を圧迫するものとして反発の声が上がっているものの、世論調査では、日本人の69%が「正月3ない宣言」に賛同しているとしている。これらの規制には罰則はないものの、正月を自粛した法人・個人に対して自動車関連税を最大20%、法人税を最大40%、所得税を最大60%、住民税を最大100%免除されるため、正月を自粛した方が有利になっている。

「馬鹿と言う人間が馬鹿」の本当の意味

よく幼い頃にこのような言葉を聞いたことがあるだろう。

「馬鹿という人間が馬鹿」

しかし、この言葉の正しい使い方を知らない人間もいると思うので、ここでは簡単ながらその本当の意味を考えてみたいと思う。

 

たとえば、いわゆる職業ライターがよく「ブ○ック企業云々」というような本を出すが、では、職業ライターは真っ白な職業なのだろうか?

労働問題的なものだけに限っても、ほぼ真っ黒である。

まず、一般に言われるブ○ック企業では(最低限ないしほんのわずかながら)残業代や休暇は一定の額は保障されているが、職業ライターは残業代の保障すらない。当然平日休日の概念もないので、一般人とは曜日感覚が大きく狂ってしまう。

極端な話を言えば、12月上旬が締め切りだったとして、10月は休みも適宜とることが出来るが、11月になるとそうもいかなくなり、11月下旬には休暇が食事時間と睡眠時間など以外何もないということもありうる。

ライターには上司も部下もいないが、取引シーンにおけるストレス要素は相応なものであろう。

ほかのブ○ック要素が思いつかないが、残業代とか休暇の2つだけをとっても真性のブ○ック職業ということを察せると思う。

だから、もし私たちが読者諸君に対して「過酷労働ご愁傷様ですww」と言ったら、「お前が言うな!!」と言い返せばいい。

 

要するに、馬鹿と言って良いのは自信が馬鹿であるときであるということだ。

不良大国でサブカルチャーの天国(笑)

最近私鉄が文字通り不良のたまり場になっている。彼らは鉄道オタクを名乗っているが、彼らの存在は有害無実でしかない。いい加減、日本国民は鉄道オタクと私鉄を排斥せよと思うが、自爆的思考の日本人は黙認が多いらしい。今現在では世論調査などで鉄道オタクには否定的な声が多数だが、うやむやのうちに既成事実化することが予想される。今までがそうだったからだ。
また鉄道オタクも常に右派や不良と足並みを揃えている。ならば右派の下僕になればいい。ノンポリのふりをして支持だけ集め、右派の補完勢力になるのは卑怯この上ない。

さて日本人は先進国の中では飛び抜けて不良が多い国だそうである。その割合は約10%。

過去に鉄道好きであったA氏が自身の不良経験を語っていた。

鉄道オタクでへんな人間と付き合って以来、不良にのめり込み、ついには右派勢力を知らず知らずに支援してしまった。
その上、ヘイト行為や半グレに手を出して、ついには少年院に収監されてしまった。高校中退にも至ってしまったそうである。

なぜか韓国人中国人台湾人など、知日的な人間ほど黙認する傾向にあるようだ。普段は「日本人は不思議だ!」などと口角泡を飛ばす連中がいったいどういう態度の違いなのかと思うが、不良のためには信念はいくらでも変わるものらしい(笑)。

鉄道好きや鉄道オタク自体は悪いことではないが、私は個人的にこの3つだけは交際の対象にしてはならないと考えている。

その3つとは「地下社会、公権力、右翼」である。

この3つは、まず依存性が強く出ること。そして本人を破滅させてしまうことである。わかりやすく言えば、宗教にのめり込むことは麻薬に浸る状態に似ているそうだ。「宗教は薬物中毒の始まり」という言葉があるが、これからは「鉄道好きは不良の始まり」と言いたい。
ギャンブルは勝った時のことしか覚えていない状態になるように、鉄道好きはポジティブなシーンでしか覚えられないそうで、こうなったら周囲が何を言っても耳に入らなくなる。

ところで、ネット空間では「威圧的なものを好む車・バイク好きこそ不良の予備軍」などという感情的な発言をしている。この連中、どんどん品性が劣化している。暴走族が健在だった時よりも卑しくなっているのではないか。

快感にしか価値を見出さない者としては鉄道好きも理解できるところではあるが。

日本の鉄道公共交通が落ちぶれた原因は旧態依然と融合した「サブカル共同体」にあり

趣味離れ、娯楽離れ、過激派化、つまり「大衆文化の総敗北」が濃厚になっている2010年代だが、なぜこんなことになったかというと、その原因は今の大衆文化を見ればわかる。サブカル臭さが酷すぎる。

たとえば朝日新聞の「ひと欄」は以前は各界有識者のみが出てきたが、今ではお笑い芸人やネットがらみのうさんくさい人間が平気で出てくる。オピニオン欄でポストモダン芸人がだらだらとサブカル無駄話を開陳することもあるし、社会面や時事の硬派な話題に無理やりAKBをねじ込むことも多すぎる。

最近の鉄道を見るとやはりサブカルであることに気づく。「公共交通のことを考えていないようなあからさまなネタ消費」みたいなコンセプトであることが多いし、鉄道オタクの間でも賛否が分かれている。ネタ消費要素を抜きにすると、どれも恐ろしいくらいマンネリ化している。

JR九州などの私鉄が国民に嫌われる原因は旧態依然と融合した「サブカル共同体」にあるということに気づく。これはもっといえば「平成の健全なカウンターカルチャーの敗北」に原因があるのだ。JR関係者も鉄道オタクはその辺しっかり認識してほしい。鉄道オタクが叱らなかった結果今がある。

「JR」は古典私鉄を殺せなかった

1990年代になぜJRが社会現象になったのかを思い返してほしい。それは、国鉄時代にはありえなかった洗練性があったからだ。既存の私鉄のそれよりも良い意味でずっとあか抜けていて、新しい時代の新しいセンスがコンセプトに、車両に、駅や営業にふんだんにあった。

JR東日本の列車は1990年代の私鉄と異なるパラレルワールドのようなものであり、「こういう未来だったら楽しいよね」という提示があった。そのくせ、並行する古典私鉄は古典的そのものであったと記憶している。

当時を振り返ってみると、JR東日本の列車と東武の列車は同じ国の同じ時代の鉄道とは思えなかった。普通車の混雑ぶりに特急を利用したトラウマのあったのが記憶する最古の東武鉄道利用だが、車両もダイヤも運賃も妙に昭和臭かったと覚えている。今見ると、やっぱり古い。玄人ホイホイである。

通常の常識で言えば、1990年代の時点で以前から進歩がなく、玄人ホイホイの古典的な古い私鉄こそ、2016年にはとっくにJRに負けている必要がある。しかし現実を見ると、JRのほうがよほど敗者依然そのもので古典私鉄の下僕みたいな感じである。

今の鉄道交通(特にJR)はサブカル臭いのである。それは観光列車にヤンキーがやたら没頭する気色悪さを見ればわかる。車両もやたらけばけばしい。JR東日本も観光列車重視でサブカルだ。サブカル、サブカル、サブカルなのだ。

JRがこのような体たらくになった原因はまさにそれである。車社会の横暴に怒りを爆発させてJRを作ったはいいが、それよりもさらに華やかで洗練された未来を提示できなかった。そのすきに淘汰されるべくベタをサブカルが乗っ取ったのだ。

ポスト車社会が死んで国鉄が生まれ変わるという顛末

1970年代を振り返ってほしい。私は詳しく勉強していないが、当時は陸上交通界にパラダイムシフトがあった。不便かつ安心と信頼の鉄道中心から、便利な交通手段である自動車へのスタンダードの転換があった。これはまあよかったのである。問題はその後だ。

道路交通は「質の高い車両や道路であり、時間帯に邪魔されない公共の交通手段」であるべくインフラのはずだった。しかし例えば今の地方の幹線道路でとくに休日のそれを見てほしい。ほとんどが遊び場である。そして車両は腐れ改造車で、ポスト珍走団仕様車さえある。これじゃあ車社会が滅ぶのも当然だろう。先祖がえりする地方である。

鉄道はどうか。実は鉄道は、本当なら経済成長や社会発展と共に合理化されてよいはずなのだが、2000年代以降一気に「ポスト1930年代化」している。第三セクター鉄道もそうだが、とにかく明治時代の鉄道網を目指すかのように鉄道会社数がインフレ化している。何よりひどいのが東北本線沿線だ。

サブカル臭い観光列車が旅客船を走る光景が今や当たり前なのだ。西日本ですら私鉄はレームダック化が進んでいるようだが、東日本では逆に息を吹き返している。鉄道オタクがヤンキー化している。これは悪夢ではないか。

で、西日本の私鉄社会がそのまま東日本に横流しされるように、大阪病が東京に転移し、旧態依然を掻っ切るべきカウンターカルチャーが「サブカルという衣をまとった旧態依然」によって潰されたのである。これがすべての原因だ。

日本的古典性と権威を「サブカル共同体」は乗っ取った

2000年代の鉄道におけるサブカルはまだましだった。日陰者らしい、ちっぽけな空間にあった。都市部でも精々東京から離れている地域を走る私鉄線とか、世間から忌憚される空間にだけあった。当時のメインカルチャーが、今、死に体なのである。

つまり「1960年代以降」のメインカルチャーにあったカウンター性、国鉄的なものを拒んだ発想。封建時代を連想し、日本的古典共同体を連想し、何より国鉄という権力を拒否した、あの健全な「よりよいものを求める」発想が、今風前の灯火にあり、日本の鉄道界隈が腐っている。

結果公共交通的私鉄の最底辺がJR九州(ついでに西武・近鉄)で、最も好かれているのがあのポスト国鉄こと東武JR西日本(もしかしたらJR北海道JR東海名鉄・南海も入るかもしれない)である。特に、JR東日本・東海アンチを受け継ぐ懐古趣味の人たちは、本当にこの現状を危惧されたほうがよいのではないか(笑)。

日本的古典性と権威を団塊以下の大衆が拒絶したのは良かった。それに代わる文化を作ったまでも良かった。しかしそれが息切れした時、ちょうど世代交代を迎えた「国鉄的なる存在」が、隙をついてサブカルに乗っ取られたのである。サブカルたちには平成前半(もうじき平成は終わる)の主流文化へのルサンチマンがある。

それはいわば、ネットジャーゴンを見ればわかる「リア充」叩きというやつだ。1999年以降のネット原住民空間が嫌悪したスタンダードの文化が今は瀕死状態にある。ネット原住民は逆張り変態なので、みんなが軟派なJRを楽しんでいた時にお堅い国鉄を求めていたような天邪鬼である。なので、こうなってしまった。

昔は1億総スタンダードだった「日本的古典性」と、多くの国民が知らなかったり知ったところで気持ち悪がったゲテモノである「サブカル」とをくっつけた要因は世代交代だけでない。両者に共通しているのは畳精神であることもあえて注目したい。

とりわけ1960年代の第一次モータリゼーションあたりから、「日本的古典性」を脱する上で重要な要素が「欧米を見習う」ということにあった。畳文化のウチと相反するヨソの国で、しかも土足文化である。そういう遠くの西洋の、より主流的で、より最新のものを本場流で取り入れ、あるいは見習った回路があった。

つまりサブカルのいくつかの「リア充嫌い」の人たちは、心ではそのつもりでも本当は「鬼畜米英」的な西洋嫌いに過ぎない場合もあるのである。珍走団が元はアメリカ文化のくせアメリカ的要素を拒絶し、反権力よりも御用を求めたがる特殊人間ばかりなのも同じことである。だからガラパゴス化してしまった。

本来であれば、団塊世代より以上の世代と以下(20世紀型オタクを除く)の世代を分ける最大の要因が、畳の上で死にたい願望の有無であり、畳精神を脱却して外来文化を求めることが現代の特徴だったが、サブカル層に限ってはそれが例外だったわけである。その田舎者らしい「保守性」が今、極まっている。

外国を見習えという理由はまさにここにある

私はよく「外国に抜かれる日本」の現状を憂いている。特に2000年代以降は、日本の中にあったスタンダードの発展の流れが、アジア辺りにそのまま転移しているように見える。そう感じている人は自分だけではないはずだ。2000年代までアジアは日本を手本にしていたが、今では欧米を見習っている。

よくネトウヨが中国や韓国を見下す理由の1つが、かつて中国や韓国は日本を手本にしていて、それがパクリだといわれたからだ。しかし日中韓の文化を見ると、日本の文化は2010年代を境に中国か韓国の後追いになり、欧米水準を見習った流れが消えたのに、中国韓国はむしろこの時期から欧米を見習っているのだ。

中国韓国は嘗ては鉄道は社会の嫌われ者だった。鉄道好きと言うだけでとんでもない差別を受けていたこともある。今はそれと間逆だ。欧米と同じ鉄道サブカルチャー浸透国で、近未来的な技術などにも挑戦しているように見える。

日本における鉄道カルチャーは本来「中国や韓国と違い、むしろ大衆にも受け入れられている」のサブカルチャーだった。なので公共空間でも流せた。しかし、今の鉄道好きは露悪趣味だ。一方、中国と韓国は、2010年代以降の方がよほど寛容的になっているのであり、ここも違った。

ポストモダンの人たちはよく「車カルチャーの時代が終わったのは新自由主義の影響だから」と思い込んでいて、鉄道が大体の文化であるかのようにはき違えている。しかし現実は間逆で、最低限インフラに関しては何から何まで日本より先んじて日本より秀でていた。その中国と韓国が今公共交通強国になっている。

ポストモダンたちは、マスカルチャーを見下しながら、けっきょく自分たちこそ死に体の日本ローカルのマスカルチャーを率先して乗っ取って、その権威主義があるのではないか。主流大衆は今も昔もサブカルには無関心である。反社会的みたいな存在がのうのうと生きている現実を納得できない人は多い。

2013年を元年とした車社会ルネサンスは、特に大衆層でリベラルな存在が、欧米を見習った鉄道社会が日本国内にないから仕方なく昔のソレを代替物として用いたものではないかと思う。なので最近のサブカル好きには車・バイク好きを兼ねた人がものすごい多い。2000年代までのサブカル嫌いは現実を知らないのである。

ちなみに今のサブカル文化をリードしている外国の大人たちは、日本だったらそれこそ初期サブカル世代かもしれないが、民主化運動の世代だ。軍事政権を打倒し、民主主義を勝ち取った当事者なのである。独裁者の所有物だった古いマスカルチャーを破壊したのも彼らである。

今の日本で必要なことは、「暴走族旋風」で不良が自動車・バイクサブカルを支配したような流れに起因するポストサブカル化する旧態依然サブカルと同じような一連の流れを断ち切ることである。タイトルにある鉄道の場合、観光列車を公共交通から分離することで、鉄道のサブカルを適切な位置に戻す流れを作らなきゃいけない。

日本サブカルを再建する唯一の手段は「中心軸を日本から追い出すこと」だ

日本のサブカルの消費中心地はもはや日本ではないということは多くの人が分かっていることではないか。外国で日本のRPGが大ヒットしたのはその代表例である。何一つサブカルチャーを持たない途上国の、その中でも何もない国が大賑わいである。

この催しは、家庭用・携帯機型ゲーム好き以外にとってもクオリティは興味深いはずである。ソシャゲ最大の消費地も中国なので、萌え系・硬派系問わないサブカルの外国人ファンを網羅的に囲い込めたのが、人気の秘訣ではないかと思われる。

サブカルがそれまでのポップカルチャーサブカルチャー(Subculture≠Sabukaru)と大違いであることはまさにこれだ。ポップカルチャーサブカルチャーの場合、その生成される場所や発信地は同じ国内である必要がある。例えば私鉄文化の最大の生産地と最大の消費地は共に日本であった。

つまり消費をするには地元住民であるほうが有利で、あるいは地元在住でなければそもそも体験が不可能な場合も多かった。人口やカネが多く集まって初めて成り立つ趣味や、決まったの環境でなければ成立しない娯楽がいくらでもあった。サブカルは例外なのである。

ネトゲ的手法に限らず、外国人が国際サブカルに絡んだまちおこしをするケースは、例えば韓流サブカルなら韓国より日本やアメリカの方が圧倒的に多い。サブカルのPRのための特設ページや動画、マスコット作りなど、どれも日本人ほど苦戦気味で、外国人であるほど上手である。

オタクやネット原住民ではない人のためのサブカルもそうだ。国際的なジャンルでいえば「ロードバイク系」は欧米の文化だが主に日本を含むアジアが消費のメインである。最近放送された例のアニメもやはり日本が舞台だ。オートバイだって台湾や中国や韓国のものが日本で消費されている。鉄道文化が地産地消であるのとは違う。

最近のバイク・自動車趣味消費が昔と違うのは、広い視野を持たないことだ。むしろ逆で、地産地象文化に疎い人たちほど好むものである。それはいわば、かつてのバブル時代とか、ポストバブル時代への逆張りである。

普通のモータリゼーションは、自動車に関する敷居が低くなるもので、風景は不変である。しかし、日本における車社会は文字通り、日本特有のロードサイド・ファスト風土か現象が起きる。motorizationとKurumashakaiの違いはまさにここだ。

私は首都圏在住の上に育ちが大阪などの都市圏なので、車社会文化にやや疎いのだが、これらは日本型に当たらない。神奈川県だけとっても愛知県同様に早い時期にモータリゼーションが発生したが、鉄道の廃線等は鉄道空白地帯がもともと多かったこともあって少なかったことは有名である。

昭和時代の国内系自動車バイクメーカーや国内・国際志向のメディアを中心とした街空間やそれと一体的なメディアによって作られた車・バイクブームの流れと現在のネオ車・バイクブームが完全に矛盾するのは、没国籍性である。国籍にこだわる必要性がないのでカオスになる。

日本サブカルの中心軸を日本から追放すべきではないのか?

私が本当に不思議なことは、サブカルには国内である必要性は何も無い。にもかかわらず、なぜかその発信地・中心地が国内にあることだ。これは本当に無意味なことで、もったいないことではないかと思う。これを外国に移すことさえできれば、労働問題などの逆風に悩むサブカルは、活性化が実現するはずだ。

大学生のみなさんは周りを見渡してほしい。今時外国カルチャーが好きな人、みんな日本出身者ではないか。だって今の若者、昔からの日本人にとってはサブカル系が内向きだった時代は自分が幼い時で、年の離れたきょうだいや場合によっては親の世代の文化だろうに。

どうしても国内でないと成り立たない文化はある。例えば内向きなもの。ヤンキーニズムが日本固有の文化であるがゆえに、外国では成立しないから、数を集めても日本に疎い人は存在しないことはしょうがないことだが、例えばオタクはそうでない。

帰国子女の先輩で「某アメリカ産ゲームファン」がいた。先輩によるとかつてそのゲームは日本にはあまり縁のなかったものだったそうだ。ipadなんて存在していない時代の文化だ。ipadはアメリカ、アジアンゲームは中国や韓国のコンテンツで、どちらも日本は無関係だ。

しかし今、東京のメディアが、東京の広告代理店がやたら日本のサブカルを出しまくっている、「日本しか通じないもの」であるかのように装っている。サブカルの現実を知らない外国人ならそう勘違いする。これは非常に、韓国サブカルを愛する日本人にとっても日本サブカルを愛するアメリカ人にとってももったいないことではないか。サブカルの消費・生産地を分離すべきだ。

オートバイだって一人でできる趣味だけど、そもそも免許とカネと十分な道具があって治安などの余裕がなければできないので、首都圏では当たり前に定着していても道路治安の悪い一部地域では敷居の非常に高い娯楽である。がサブカルは、情報手段さえ入手すればどこでも消費できる。「一人で鉄道旅をする、バス旅をする」ができればいい。

日本でのサブカルの消費環境が最も充実しているのが日本というのは、本当に無駄ではないかと思う。序でに言っておくが、今時の日本でオタク系のバイク消費者の若者の人間を見つけたためしがない。リア充はいても、もっと凝った文化、その道の達人っぽい人、悪く言えば変態みたいなのが大半で、オタク道と最も無縁だ。

例えばバイクオタク向けイベントが郊外や地方で開催され、そのイベントに全国いや世界の消費者がチケットを求め、車両がフェリーやトラックの車両輸送便などで、参加者が飛行機やフェリーや高速船でやってくる。しかし、その会場の目下周辺に実際に暮らす「生粋の江戸っ子」たちは、そんな情報を、若者でさえ知らない。この矛盾、ずっと引っかかってるものがある。

私はこれまで日本サブカルやマイルドヤンキーなどをしつこく指摘したが、長所があるとすれば土地や環境にこだわりがなく、外国であっても不都合はない、むしろ外国ほど消費地に近いので盛り上がりやすいことではないかと思う。それはかつての韓流と日本のアニメ文化を見ればわかる。普通のカルチャーなら、外国くんだりまで行きたい人はいない。

しかし「マイルドヤンキーかぶれの日本人」みたいな連中こそが、まさに日本サブカルの日本国内でのメーン消費者なのである。これも事実だ。そして現状、リア充が最も日本サブカル情報感度が高いのは、サブカルでありながら大衆に知られている文化であること、頑張れば短期間でイベントに行けることではないかと考える。

たとえばだが、TPPFTAが発動する際などの取り組みによって「生産国外ほどその国のサブカルに有利な状態」を作為的に促すのはどうだろう。日本であれば、私鉄における不動産のようなサブカル系ビジネスを地方程優先的に行うようにし、それを実行した企業を優遇するとか、スクリーンクオータならぬサブカルクオータ制を作るべきだ。

都市部の人たちが車やバイクを羨むのは、何もサブカルチャーを求めているわけではない。むしろサブカルチャーは「DQN(マイルドヤンキーの意味)の次に低品質」なので嫌いである。単に、所得環境が都会程いいからだろう。

本来日本の「私鉄文化」はシティーカルチャーであるが、地方の鉄道が私鉄文化を取り入れた鉄道会社の収益が増加するようになったという。ネット時代で、情報や物流に地域格差がなくなったとされる今だからこそ、あえてその地域差を、地方優位になる形で作るべきなのである。この場合、都会程ハンデを作るべきだ。

日本人と在日外国人の文化分離が進んでいる

鉄道カルチャー好きの在日外国人に親の趣味を聴くと、アメリカ文化だという。ガレージに行くと、若い時代の血が騒ぐのが彼らで、親の子が(日本人から見て)ギャルサー臭いのも親譲りでしかない。

一方、日本人の若者は、昔ながらの鉄道カルチャーとかおたく文化みたいな、そういう昭和のカウンターカルチャーの流れがあるからこそ、親の世代とは異なる文化を好むのである。私の感覚知的には、首都圏の日本人の若者は公共交通カルチャー消費も露悪趣味消費も無関心で、オタク志向が高いと思う。例えば在日外国人の人間は最近日本で流行のオートバイカルチャーに疎いか嫌いだ。

1990年代~00年代前半の日本産で日本で消費されたサブカルの象徴でもあるJR・都市私鉄文化が前は国鉄文化だったというのと、地方私鉄系のそれは似ているかもしれないが、でも例えば都市部のJRや私鉄で云うところの京急名鉄や京成はJR九州のまねをしなかった。表現はともかく構造はサブカル階層が日本限定の昭和バイク文化を現代風に改良したのと似ているかもな。

いずれにしても昭和のその文化は、いわば「日本のご当地」だった。それは「ご当地文化生産者」がいて、地元の生身で体験する消費地やイベントと連動性があったのもそうだがメディアも違った。1980年代の日本のオタク文化とかサブカルも日本ローカルだったし、アキバ系シブヤ系も当初日本限定だった。

なぜ日本人が日本の鉄道カルチャーから離れたのか。いま鉄道を楽しんでいるのは外国人か帰国子女か一部のオタクしかいないし、外国のサブカルを手本にしているサブカルオタクの生産者に話を聞くと肩身狭そうな印象があるんだけど、その理由を考えると、時代が変わった以上に昭和の時代と違って収束化が進んでそもそも進歩できる余地がなくなったのも大きいと思う。

逆に外国産のサブカルの場合は、日本では発散状態で、まだ歴史の浅いものが多いので、革新的なことがやりやすいのかと。例を挙げるが、現代のバイク文化は地方でも収入がない者にとっては成り立たなくなっている(地方から都会の順に珍走団や日本の伝統的裏社会が滅んだのも恐らく地方の貧困化が原因ということに似ている。)のだから比較的カネの余っている人間に浸透している。

少しでもの昔とは逆転していて、しかもであるとは思うが、大学生などのサークルにおいて例えばオートバイ好きサークルは都市部出身者で増加傾向にあり(オタクと言うよカルト集団的に影が薄く、変わり者も多かった)、鉄道サークルは地方を中心に増加傾向にあるのは、つまりそれだったんじゃないかな。

とにかく、「地域文化」や「主流文化」を一括りにするポスト20世紀型の発想いい加減やめたほうがいいんだよね。昭和なら、地方の存在を無視して東京で勝手に作って東京で消費する文化だけを誇張して伝えられたけど(それはそれで問題であったが)今、東京で生産して地方人を中心に消費されているのが日本の都会の鉄道消費文化の現実だ。

東京の鉄道文化の最大消費者が神奈川県住民であってもいいように、日本の文化の最大消費者が日本人である必要はない、むしろ外国人ほど都合がよく、以前のような日本文化と違って外国に持ち込むのはダサいと敬遠されることもない。それが日本産のサブカルであれば、その消費者序でに生産者も外国人に移すべきだし、明日にでも日本のサブカル産業を一度まるごと全部、外国人に跡を継いだほうがいい。その文化が活性化する最善の手段だ。

例えば、韓国は一回韓国産サブカルの色を全部消した方がいい。空っぽにして、国産サブカルを抜いた韓国に何が残るかを一度世に示すべきだ。それが実際に韓国人が作ったり楽しんだり愛している文化なので。本当にその辺を考えると、今の日韓の現代文化の醸成には嫌悪感しかない。

極論を言えば日本の私鉄社会はアメリカでも成り立つ

たとえばTPPが発効された時、あそこで幅を利かせている鉄道は土着資本の鉄道くらいしかなく、いまさら車社会に戻りたい地域もないし、仮に日本型の都市私鉄文化がアメリカ人の気まぐれで受け入れられても、常識的に考えてそれを輸入する手段って何もないわけだけど、もしこの文化に国際的な普遍性があれば話は別よね。

もしもアメリカに日本型の都市私鉄が進出できれば、多くの日本人鉄道オタクがアメリカを訪問するよ。ワシントンの地下鉄が日本の私鉄に買収されれば、バスや地上鉄道との競争も激しくなる。こんな正夢他にない。これって本当にすごいことだよ。

アメリカの人口分布は日本より格差が激しいので、人口が少なくてなおかつ田舎だからできるビジネスの殆んどは不可能で、民営になるから運営が不安定になるけど、民営だからこそほぼ自由な運営が可能なのが私鉄文化の強みなので、だいたいこの問題もないし、それこそアメリカで成り立つ日本原産の産業や文化の一つではないかと思う。

すごい非現実的な話をすると、アメリカには旅客鉄道の鉄道なんてほぼ寡占状態だし、鉄道運営を目指したいエリートは日本の都市私鉄を一度視察すればいい。どうせ同じ新自由主義の国でしかもアメリカでは失われた産業だから、日本におけるそれをアメリカナイズすればそれもアメリカでできるし、富に余裕のある都市部では大きな問題さえもない。

今日本で流行の観光列車も、あの運営の土壌だって、その土地発である必要はない。人種の違い、文化の違いなど関係ない。大学生時代に動画サイトで豪華列車が定期的にJR線を走っていた時代の様子を見たことがあるが、車両の内装は日本かぶれしているし、ルーツはむしろ欧州の夜行列車だと知って驚いたのだった。

東京・名古屋・大阪・福岡にある都市私鉄文化・都市私鉄ビジネスをそのままアメリカに輸出せよというのはさすがに極端なことだが、でもそれでも成り立つ。社会主義国でもないし、そもそもアメリカの新自由主義自体一時期日本でも受け入れられていたのだから。まあ現代は新自由主義自体かなり下火になっているけどね。

とにかく日本は日本のあらゆる国産サブカルを独占しすぎで、それにもかかわらず、一番の外枠を今は国産サブカルがコーティングしているがゆえに、国産サブカルばかり露見しやすくなっていて、結果的に日本特に東京の文化的豊かさや可能性さえ削いでいることが、JAPAN嫌いの日本萌えとしてはムカつくの。

と同時に、文化的主体性を失い、産業を失い、衰退しきりの日韓の問題を憂慮しているので、日韓サブカル系事業者の国際化を促し、「国際化はポップ・サブカルチャーだけでなくサブカルも逃げられない」という当たり前の常識を確立することが、外国にとって産業面でも文化面でも大きな価値があることも注目している。

日本の車社会については厳しいこともツイットしたが、それが今までにない、いい仕事をしたと思うのは外国にその子孫を残したこと。とくにアメリカやヨーロッパといった日本以外の地域(というとネット原住民に突っ込まれるようだが事実なので)に自らの種をまいたことは、親の日本が死んだ時の保険になるだろう。

バイクの趣味文化もいい加減日本の地方を撤退して都会とかで復活させたほうがいい。「地方と言えば車、都市といえばオートバイ」みたいな分業ができるだけでも、日本の自動車・バイク業界は都市・地方ともに異なる共栄ができていい。選択肢は多い方がいい。

日本人が警戒すべき「グレる優等生」の台頭

軍事趣味をこじらせて日本人からのひんしゅくを買っている女性声優達は軍事系作品のキャストで、しかも主要キャラクターの担当でもあった人だ。中には高校生時代からの筋金のガリベンの経歴を持つ者もいる。

このアニメ作品だが、正直デザインが割とカッコいい。サブカル好きから結構人気を博しているそうだが、これらも割とファンタジー系の感覚と比べればクールな感じがある。これはちょっとリベラル派は危機感持つべきだろうな。

日本のリベラルがこれまでサブカルをバカにできていられたのは、彼らがみんなエリート趣味をこじらせたDQN階層とか中流階級だったからである。つまり、目立ちたがり屋レベルのダサい人間しかいなかった。なので世間の白い眼を浴びるほどサブカルはマイルド化した。

しかし、DQN的なものと無縁で、偏差値の高い、持つ層で定時制だの通信制だのの大学卒業ではない本当にエリート系のサブカル職が、もし洗練された雰囲気の右翼趣味だの不良趣味にはまったら、きっとそれに抵抗なくますます染まる危険性がある。これが怖い。

「ガリベンで最終学歴は有名名門大学卒業で、今や知らない人は知らない売れっ子」という人がそんな趣味にはまれば、たいていの日本人は怪しむことなくスゲーカッケーとなるはずだ。

 

近頃相次ぐエリート系大学生による特殊犯罪事件は「異常事態」として大きく報じられた。私はこの時に、まずいなと思った。例えば従来の私営賭博や特殊詐欺や組織犯罪のイメージは、学歴情報から目を背けたくなるような経歴の職業犯罪者が主体になるものだったが、容疑者達はいずれも大学生や大学院生ないし元大学生や元大学院生で、裏社会とは無関係だった。つまり俗にいう「エリート層」で「高学歴層」である。

事件報道の度に、ヤサグレる若者の映像が出てきて「そもそも"グレる"とは何か」という振り返りがあった。これがヤバいと思った。いわゆる非行ではないが、露悪趣味に走るような世代たちが、うっかり感化されそうなリスクを感じたのだ。「特殊犯罪」という字面も言い換えるべきだ。

何度となくエリート容疑者や不良の「非行シーン」が出てきて、グレるだの特殊犯罪だのという日常離れした(ワルガキの感覚からみて)カッコよさそうな言葉が出てくるわけである。これは、小学生が見てもダサいだけの裏社会の報道よりもヤバかった。

今では、中国地方や新潟のような一部の田舎や東京のような極端な都会に行けば、珍走団はほとんど見かけないが、特殊な趣味に走りやすいエリート層はどこにでもいて、どの都道府県にもエリート向けの大学がある。

しかし、昔の日本はエリート社会は大衆化していなくて、珍走団もまだ活発だった。

当時、1990年の前後に多くの珍走団が東京の不良の犯罪をネタ消費するかのように真似したような光景がきっと各地の片隅にあったんだろうと思う。

どうも2010年代という年代は、日本において「グレる優等生」の萌芽があった年代だったんではないかと思う。声優に限らず俳優にもいえるのだが、いわゆる不良系の映画だのドラマだのにおける俳優の抜擢もそうだった。なんであれがまずいかというと、中の人が高学歴ばかりだから、変な理由で感化される奴が出てくる恐れがあるからで、警戒心がなさすぎではないかと思う。

 

とあるネット原住民が「不良趣味を演じる役者に学歴など関係ない」などとコメントした件はかなりまずかったと思う。高学歴化が著しいアニメ界隈の消費者がコレってどうなのという感じだった。

一部のリベラルなどはこのような現実に対する危機意識が徹底されているが、アニメの消費者一同はむしろ好意的な評価をしているようにさえ見えるのだが、おそらく個人がトンチンカンなことを言っているんじゃなく、この集団はこれがスタンダードなんじゃないかと思う。

おそらく今後2016年現在までに実写映画ないしドラマになったヤンキーもの作品がアニメ化(その逆もあり)されて、そのキャストに高学歴者がずらりと並んだら、何らかの物議をかもすようになると思う。サブカル界隈どころか、メイン階層ですら、ネタ感覚で旋風とやらを煽ってそのキャストを評価するに明け暮れる光景も想像できる。

日本国内外のリベラル、年配層、歴史や文化に詳しい人などはそれでもずっと戦い続けるだろうが、日本においては、そういう風な正当な批判的思考や闘争心を失ったリベラルやエリートのユルサとか善意の隙が「グレる優等生」が台頭させるんだろう。気付けば全体が下に振り切れる。

因みに左翼版艦これ?の終末のイゼッタのキャストもやたら高学歴層が多い。涼宮ハルヒの時代みたいな古臭い野暮ったさはないし、主人公のパートナー役は専卒ではなく高偏差値大卒だ。もし日本でアメリカみたく、裏社会やグレる人間の高学歴化が加速したら?その対策は今から必要だろう。

私と妹の小中学校時代の経歴

驚くべき事に私(1985年2月27日生まれ)とその妹(1986年1月21日生まれ)は非行経験者だ。と言ったら貴方達は怒るだろうか?

しかしながら、これは事実である。
最近までの価値観でおかしいと認められるようなものといえば1995年の夜行バス利用(確か大阪-横浜or東京便だった筈)である。両親の転職・転勤の都合上の引越しだったとはいえ、安値で新幹線の切符を買えた、貧富の差のあまり激しくない時代に、わざわざ小学生の子供を夜行バスに乗せる必要などなかったと思う。高校時代に動機を聞いてみたが、「流行の移動手段だったから」と返された。「運賃が圧倒的に安かったから(新幹線で大人一人1万円台だったが、バスでは4000~8000円台だった。)」でも合理的なのに、どうしてそう答えたのだろう。両親の性格を一言で言えば、「手間のかかることが好き」である。(呆)今では未成年が夜行バスで移動するのは日常茶飯事だが、当時はこれだけでも批判されるのがざらだった。
ちなみに小学校から高校まで全て公立出身である。

何故非行経験のあると表現したのか?

これは、かつていじめっ子の経験があったからである。
実際に、中学生時代の時には弱そうな同級生を脅したり、自転車で引っ掻き回したりしたこともあった。現在の小中高生がさすがに同じようなことが出来るとは思えないが、そのようないじめも当時はあったのだ。妹にいたっては、唯の脅しでは可愛いもので、不良をも巻き込んだ弱い者に対する文字通りのおらつきという不良まがいのいじめまでしていたという。なお、高校は私は中堅クラス、妹は進学クラスを出ていて、高校時代以降は特に目立ったいじめをしていない。

また、現代の価値観では想像もつかないことだと思うが、私と妹は当時(それも小学校高学年!)からキモヲタ趣味にはまっており、それもPTAから警戒されるようなものだった。

私と妹は小中でそのような問題児を抜け出すことが出来たが、当時はそれを高校時代まで引きずっていた人もいたという。そう考えると、いわゆる元ヤンと言われる連中よりかはかなりマシなのだろう。

私はオタクをかばう一方で、不良をたたいていたというが、私の小中学生時代が不良そのものならば、私の行っているAmebaブログやtogetterがこのように批判されるのは仕方ないだろう。