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ボンダイ(ボンK日報)

あれやこれや

不良大国でサブカルチャーの天国(笑)

最近私鉄が文字通り不良のたまり場になっている。彼らは鉄道オタクを名乗っているが、彼らの存在は有害無実でしかない。いい加減、日本国民は鉄道オタクと私鉄を排斥せよと思うが、自爆的思考の日本人は黙認が多いらしい。今現在では世論調査などで鉄道オタクには否定的な声が多数だが、うやむやのうちに既成事実化することが予想される。今までがそうだったからだ。
また鉄道オタクも常に右派や不良と足並みを揃えている。ならば右派の下僕になればいい。ノンポリのふりをして支持だけ集め、右派の補完勢力になるのは卑怯この上ない。

さて日本人は先進国の中では飛び抜けて不良が多い国だそうである。その割合は約10%。

過去に鉄道好きであったA氏が自身の不良経験を語っていた。

鉄道オタクでへんな人間と付き合って以来、不良にのめり込み、ついには右派勢力を知らず知らずに支援してしまった。
その上、ヘイト行為や半グレに手を出して、ついには少年院に収監されてしまった。高校中退にも至ってしまったそうである。

なぜか韓国人中国人台湾人など、知日的な人間ほど黙認する傾向にあるようだ。普段は「日本人は不思議だ!」などと口角泡を飛ばす連中がいったいどういう態度の違いなのかと思うが、不良のためには信念はいくらでも変わるものらしい(笑)。

鉄道好きや鉄道オタク自体は悪いことではないが、私は個人的にこの3つだけは交際の対象にしてはならないと考えている。

その3つとは「地下社会、公権力、右翼」である。

この3つは、まず依存性が強く出ること。そして本人を破滅させてしまうことである。わかりやすく言えば、宗教にのめり込むことは麻薬に浸る状態に似ているそうだ。「宗教は薬物中毒の始まり」という言葉があるが、これからは「鉄道好きは不良の始まり」と言いたい。
ギャンブルは勝った時のことしか覚えていない状態になるように、鉄道好きはポジティブなシーンでしか覚えられないそうで、こうなったら周囲が何を言っても耳に入らなくなる。

ところで、ネット空間では「威圧的なものを好む車・バイク好きこそ不良の予備軍」などという感情的な発言をしている。この連中、どんどん品性が劣化している。暴走族が健在だった時よりも卑しくなっているのではないか。

快感にしか価値を見出さない者としては鉄道好きも理解できるところではあるが。

日本の鉄道公共交通が落ちぶれた原因は旧態依然と融合した「サブカル共同体」にあり

趣味離れ、娯楽離れ、過激派化、つまり「大衆文化の総敗北」が濃厚になっている2010年代だが、なぜこんなことになったかというと、その原因は今の大衆文化を見ればわかる。サブカル臭さが酷すぎる。

たとえば朝日新聞の「ひと欄」は以前は各界有識者のみが出てきたが、今ではお笑い芸人やネットがらみのうさんくさい人間が平気で出てくる。オピニオン欄でポストモダン芸人がだらだらとサブカル無駄話を開陳することもあるし、社会面や時事の硬派な話題に無理やりAKBをねじ込むことも多すぎる。

最近の鉄道を見るとやはりサブカルであることに気づく。「公共交通のことを考えていないようなあからさまなネタ消費」みたいなコンセプトであることが多いし、鉄道オタクの間でも賛否が分かれている。ネタ消費要素を抜きにすると、どれも恐ろしいくらいマンネリ化している。

JR九州などの私鉄が国民に嫌われる原因は旧態依然と融合した「サブカル共同体」にあるということに気づく。これはもっといえば「平成の健全なカウンターカルチャーの敗北」に原因があるのだ。JR関係者も鉄道オタクはその辺しっかり認識してほしい。鉄道オタクが叱らなかった結果今がある。

「JR」は古典私鉄を殺せなかった

1990年代になぜJRが社会現象になったのかを思い返してほしい。それは、国鉄時代にはありえなかった洗練性があったからだ。既存の私鉄のそれよりも良い意味でずっとあか抜けていて、新しい時代の新しいセンスがコンセプトに、車両に、駅や営業にふんだんにあった。

JR東日本の列車は1990年代の私鉄と異なるパラレルワールドのようなものであり、「こういう未来だったら楽しいよね」という提示があった。そのくせ、並行する古典私鉄は古典的そのものであったと記憶している。

当時を振り返ってみると、JR東日本の列車と東武の列車は同じ国の同じ時代の鉄道とは思えなかった。普通車の混雑ぶりに特急を利用したトラウマのあったのが記憶する最古の東武鉄道利用だが、車両もダイヤも運賃も妙に昭和臭かったと覚えている。今見ると、やっぱり古い。玄人ホイホイである。

通常の常識で言えば、1990年代の時点で以前から進歩がなく、玄人ホイホイの古典的な古い私鉄こそ、2016年にはとっくにJRに負けている必要がある。しかし現実を見ると、JRのほうがよほど敗者依然そのもので古典私鉄の下僕みたいな感じである。

今の鉄道交通(特にJR)はサブカル臭いのである。それは観光列車にヤンキーがやたら没頭する気色悪さを見ればわかる。車両もやたらけばけばしい。JR東日本も観光列車重視でサブカルだ。サブカル、サブカル、サブカルなのだ。

JRがこのような体たらくになった原因はまさにそれである。車社会の横暴に怒りを爆発させてJRを作ったはいいが、それよりもさらに華やかで洗練された未来を提示できなかった。そのすきに淘汰されるべくベタをサブカルが乗っ取ったのだ。

ポスト車社会が死んで国鉄が生まれ変わるという顛末

1970年代を振り返ってほしい。私は詳しく勉強していないが、当時は陸上交通界にパラダイムシフトがあった。不便かつ安心と信頼の鉄道中心から、便利な交通手段である自動車へのスタンダードの転換があった。これはまあよかったのである。問題はその後だ。

道路交通は「質の高い車両や道路であり、時間帯に邪魔されない公共の交通手段」であるべくインフラのはずだった。しかし例えば今の地方の幹線道路でとくに休日のそれを見てほしい。ほとんどが遊び場である。そして車両は腐れ改造車で、ポスト珍走団仕様車さえある。これじゃあ車社会が滅ぶのも当然だろう。先祖がえりする地方である。

鉄道はどうか。実は鉄道は、本当なら経済成長や社会発展と共に合理化されてよいはずなのだが、2000年代以降一気に「ポスト1930年代化」している。第三セクター鉄道もそうだが、とにかく明治時代の鉄道網を目指すかのように鉄道会社数がインフレ化している。何よりひどいのが東北本線沿線だ。

サブカル臭い観光列車が旅客船を走る光景が今や当たり前なのだ。西日本ですら私鉄はレームダック化が進んでいるようだが、東日本では逆に息を吹き返している。鉄道オタクがヤンキー化している。これは悪夢ではないか。

で、西日本の私鉄社会がそのまま東日本に横流しされるように、大阪病が東京に転移し、旧態依然を掻っ切るべきカウンターカルチャーが「サブカルという衣をまとった旧態依然」によって潰されたのである。これがすべての原因だ。

日本的古典性と権威を「サブカル共同体」は乗っ取った

2000年代の鉄道におけるサブカルはまだましだった。日陰者らしい、ちっぽけな空間にあった。都市部でも精々東京から離れている地域を走る私鉄線とか、世間から忌憚される空間にだけあった。当時のメインカルチャーが、今、死に体なのである。

つまり「1960年代以降」のメインカルチャーにあったカウンター性、国鉄的なものを拒んだ発想。封建時代を連想し、日本的古典共同体を連想し、何より国鉄という権力を拒否した、あの健全な「よりよいものを求める」発想が、今風前の灯火にあり、日本の鉄道界隈が腐っている。

結果公共交通的私鉄の最底辺がJR九州(ついでに西武・近鉄)で、最も好かれているのがあのポスト国鉄こと東武JR西日本(もしかしたらJR北海道JR東海名鉄・南海も入るかもしれない)である。特に、JR東日本・東海アンチを受け継ぐ懐古趣味の人たちは、本当にこの現状を危惧されたほうがよいのではないか(笑)。

日本的古典性と権威を団塊以下の大衆が拒絶したのは良かった。それに代わる文化を作ったまでも良かった。しかしそれが息切れした時、ちょうど世代交代を迎えた「国鉄的なる存在」が、隙をついてサブカルに乗っ取られたのである。サブカルたちには平成前半(もうじき平成は終わる)の主流文化へのルサンチマンがある。

それはいわば、ネットジャーゴンを見ればわかる「リア充」叩きというやつだ。1999年以降のネット原住民空間が嫌悪したスタンダードの文化が今は瀕死状態にある。ネット原住民は逆張り変態なので、みんなが軟派なJRを楽しんでいた時にお堅い国鉄を求めていたような天邪鬼である。なので、こうなってしまった。

昔は1億総スタンダードだった「日本的古典性」と、多くの国民が知らなかったり知ったところで気持ち悪がったゲテモノである「サブカル」とをくっつけた要因は世代交代だけでない。両者に共通しているのは畳精神であることもあえて注目したい。

とりわけ1960年代の第一次モータリゼーションあたりから、「日本的古典性」を脱する上で重要な要素が「欧米を見習う」ということにあった。畳文化のウチと相反するヨソの国で、しかも土足文化である。そういう遠くの西洋の、より主流的で、より最新のものを本場流で取り入れ、あるいは見習った回路があった。

つまりサブカルのいくつかの「リア充嫌い」の人たちは、心ではそのつもりでも本当は「鬼畜米英」的な西洋嫌いに過ぎない場合もあるのである。珍走団が元はアメリカ文化のくせアメリカ的要素を拒絶し、反権力よりも御用を求めたがる特殊人間ばかりなのも同じことである。だからガラパゴス化してしまった。

本来であれば、団塊世代より以上の世代と以下(20世紀型オタクを除く)の世代を分ける最大の要因が、畳の上で死にたい願望の有無であり、畳精神を脱却して外来文化を求めることが現代の特徴だったが、サブカル層に限ってはそれが例外だったわけである。その田舎者らしい「保守性」が今、極まっている。

外国を見習えという理由はまさにここにある

私はよく「外国に抜かれる日本」の現状を憂いている。特に2000年代以降は、日本の中にあったスタンダードの発展の流れが、アジア辺りにそのまま転移しているように見える。そう感じている人は自分だけではないはずだ。2000年代までアジアは日本を手本にしていたが、今では欧米を見習っている。

よくネトウヨが中国や韓国を見下す理由の1つが、かつて中国や韓国は日本を手本にしていて、それがパクリだといわれたからだ。しかし日中韓の文化を見ると、日本の文化は2010年代を境に中国か韓国の後追いになり、欧米水準を見習った流れが消えたのに、中国韓国はむしろこの時期から欧米を見習っているのだ。

中国韓国は嘗ては鉄道は社会の嫌われ者だった。鉄道好きと言うだけでとんでもない差別を受けていたこともある。今はそれと間逆だ。欧米と同じ鉄道サブカルチャー浸透国で、近未来的な技術などにも挑戦しているように見える。

日本における鉄道カルチャーは本来「中国や韓国と違い、むしろ大衆にも受け入れられている」のサブカルチャーだった。なので公共空間でも流せた。しかし、今の鉄道好きは露悪趣味だ。一方、中国と韓国は、2010年代以降の方がよほど寛容的になっているのであり、ここも違った。

ポストモダンの人たちはよく「車カルチャーの時代が終わったのは新自由主義の影響だから」と思い込んでいて、鉄道が大体の文化であるかのようにはき違えている。しかし現実は間逆で、最低限インフラに関しては何から何まで日本より先んじて日本より秀でていた。その中国と韓国が今公共交通強国になっている。

ポストモダンたちは、マスカルチャーを見下しながら、けっきょく自分たちこそ死に体の日本ローカルのマスカルチャーを率先して乗っ取って、その権威主義があるのではないか。主流大衆は今も昔もサブカルには無関心である。反社会的みたいな存在がのうのうと生きている現実を納得できない人は多い。

2013年を元年とした車社会ルネサンスは、特に大衆層でリベラルな存在が、欧米を見習った鉄道社会が日本国内にないから仕方なく昔のソレを代替物として用いたものではないかと思う。なので最近のサブカル好きには車・バイク好きを兼ねた人がものすごい多い。2000年代までのサブカル嫌いは現実を知らないのである。

ちなみに今のサブカル文化をリードしている外国の大人たちは、日本だったらそれこそ初期サブカル世代かもしれないが、民主化運動の世代だ。軍事政権を打倒し、民主主義を勝ち取った当事者なのである。独裁者の所有物だった古いマスカルチャーを破壊したのも彼らである。

今の日本で必要なことは、「暴走族旋風」で不良が自動車・バイクサブカルを支配したような流れに起因するポストサブカル化する旧態依然サブカルと同じような一連の流れを断ち切ることである。タイトルにある鉄道の場合、観光列車を公共交通から分離することで、鉄道のサブカルを適切な位置に戻す流れを作らなきゃいけない。

日本サブカルを再建する唯一の手段は「中心軸を日本から追い出すこと」だ

日本のサブカルの消費中心地はもはや日本ではないということは多くの人が分かっていることではないか。外国で日本のRPGが大ヒットしたのはその代表例である。何一つサブカルチャーを持たない途上国の、その中でも何もない国が大賑わいである。

この催しは、家庭用・携帯機型ゲーム好き以外にとってもクオリティは興味深いはずである。ソシャゲ最大の消費地も中国なので、萌え系・硬派系問わないサブカルの外国人ファンを網羅的に囲い込めたのが、人気の秘訣ではないかと思われる。

サブカルがそれまでのポップカルチャーサブカルチャー(Subculture≠Sabukaru)と大違いであることはまさにこれだ。ポップカルチャーサブカルチャーの場合、その生成される場所や発信地は同じ国内である必要がある。例えば私鉄文化の最大の生産地と最大の消費地は共に日本であった。

つまり消費をするには地元住民であるほうが有利で、あるいは地元在住でなければそもそも体験が不可能な場合も多かった。人口やカネが多く集まって初めて成り立つ趣味や、決まったの環境でなければ成立しない娯楽がいくらでもあった。サブカルは例外なのである。

ネトゲ的手法に限らず、外国人が国際サブカルに絡んだまちおこしをするケースは、例えば韓流サブカルなら韓国より日本やアメリカの方が圧倒的に多い。サブカルのPRのための特設ページや動画、マスコット作りなど、どれも日本人ほど苦戦気味で、外国人であるほど上手である。

オタクやネット原住民ではない人のためのサブカルもそうだ。国際的なジャンルでいえば「ロードバイク系」は欧米の文化だが主に日本を含むアジアが消費のメインである。最近放送された例のアニメもやはり日本が舞台だ。オートバイだって台湾や中国や韓国のものが日本で消費されている。鉄道文化が地産地消であるのとは違う。

最近のバイク・自動車趣味消費が昔と違うのは、広い視野を持たないことだ。むしろ逆で、地産地象文化に疎い人たちほど好むものである。それはいわば、かつてのバブル時代とか、ポストバブル時代への逆張りである。

普通のモータリゼーションは、自動車に関する敷居が低くなるもので、風景は不変である。しかし、日本における車社会は文字通り、日本特有のロードサイド・ファスト風土か現象が起きる。motorizationとKurumashakaiの違いはまさにここだ。

私は首都圏在住の上に育ちが大阪などの都市圏なので、車社会文化にやや疎いのだが、これらは日本型に当たらない。神奈川県だけとっても愛知県同様に早い時期にモータリゼーションが発生したが、鉄道の廃線等は鉄道空白地帯がもともと多かったこともあって少なかったことは有名である。

昭和時代の国内系自動車バイクメーカーや国内・国際志向のメディアを中心とした街空間やそれと一体的なメディアによって作られた車・バイクブームの流れと現在のネオ車・バイクブームが完全に矛盾するのは、没国籍性である。国籍にこだわる必要性がないのでカオスになる。

日本サブカルの中心軸を日本から追放すべきではないのか?

私が本当に不思議なことは、サブカルには国内である必要性は何も無い。にもかかわらず、なぜかその発信地・中心地が国内にあることだ。これは本当に無意味なことで、もったいないことではないかと思う。これを外国に移すことさえできれば、労働問題などの逆風に悩むサブカルは、活性化が実現するはずだ。

大学生のみなさんは周りを見渡してほしい。今時外国カルチャーが好きな人、みんな日本出身者ではないか。だって今の若者、昔からの日本人にとってはサブカル系が内向きだった時代は自分が幼い時で、年の離れたきょうだいや場合によっては親の世代の文化だろうに。

どうしても国内でないと成り立たない文化はある。例えば内向きなもの。ヤンキーニズムが日本固有の文化であるがゆえに、外国では成立しないから、数を集めても日本に疎い人は存在しないことはしょうがないことだが、例えばオタクはそうでない。

帰国子女の先輩で「某アメリカ産ゲームファン」がいた。先輩によるとかつてそのゲームは日本にはあまり縁のなかったものだったそうだ。ipadなんて存在していない時代の文化だ。ipadはアメリカ、アジアンゲームは中国や韓国のコンテンツで、どちらも日本は無関係だ。

しかし今、東京のメディアが、東京の広告代理店がやたら日本のサブカルを出しまくっている、「日本しか通じないもの」であるかのように装っている。サブカルの現実を知らない外国人ならそう勘違いする。これは非常に、韓国サブカルを愛する日本人にとっても日本サブカルを愛するアメリカ人にとってももったいないことではないか。サブカルの消費・生産地を分離すべきだ。

オートバイだって一人でできる趣味だけど、そもそも免許とカネと十分な道具があって治安などの余裕がなければできないので、首都圏では当たり前に定着していても道路治安の悪い一部地域では敷居の非常に高い娯楽である。がサブカルは、情報手段さえ入手すればどこでも消費できる。「一人で鉄道旅をする、バス旅をする」ができればいい。

日本でのサブカルの消費環境が最も充実しているのが日本というのは、本当に無駄ではないかと思う。序でに言っておくが、今時の日本でオタク系のバイク消費者の若者の人間を見つけたためしがない。リア充はいても、もっと凝った文化、その道の達人っぽい人、悪く言えば変態みたいなのが大半で、オタク道と最も無縁だ。

例えばバイクオタク向けイベントが郊外や地方で開催され、そのイベントに全国いや世界の消費者がチケットを求め、車両がフェリーやトラックの車両輸送便などで、参加者が飛行機やフェリーや高速船でやってくる。しかし、その会場の目下周辺に実際に暮らす「生粋の江戸っ子」たちは、そんな情報を、若者でさえ知らない。この矛盾、ずっと引っかかってるものがある。

私はこれまで日本サブカルやマイルドヤンキーなどをしつこく指摘したが、長所があるとすれば土地や環境にこだわりがなく、外国であっても不都合はない、むしろ外国ほど消費地に近いので盛り上がりやすいことではないかと思う。それはかつての韓流と日本のアニメ文化を見ればわかる。普通のカルチャーなら、外国くんだりまで行きたい人はいない。

しかし「マイルドヤンキーかぶれの日本人」みたいな連中こそが、まさに日本サブカルの日本国内でのメーン消費者なのである。これも事実だ。そして現状、リア充が最も日本サブカル情報感度が高いのは、サブカルでありながら大衆に知られている文化であること、頑張れば短期間でイベントに行けることではないかと考える。

たとえばだが、TPPFTAが発動する際などの取り組みによって「生産国外ほどその国のサブカルに有利な状態」を作為的に促すのはどうだろう。日本であれば、私鉄における不動産のようなサブカル系ビジネスを地方程優先的に行うようにし、それを実行した企業を優遇するとか、スクリーンクオータならぬサブカルクオータ制を作るべきだ。

都市部の人たちが車やバイクを羨むのは、何もサブカルチャーを求めているわけではない。むしろサブカルチャーは「DQN(マイルドヤンキーの意味)の次に低品質」なので嫌いである。単に、所得環境が都会程いいからだろう。

本来日本の「私鉄文化」はシティーカルチャーであるが、地方の鉄道が私鉄文化を取り入れた鉄道会社の収益が増加するようになったという。ネット時代で、情報や物流に地域格差がなくなったとされる今だからこそ、あえてその地域差を、地方優位になる形で作るべきなのである。この場合、都会程ハンデを作るべきだ。

日本人と在日外国人の文化分離が進んでいる

鉄道カルチャー好きの在日外国人に親の趣味を聴くと、アメリカ文化だという。ガレージに行くと、若い時代の血が騒ぐのが彼らで、親の子が(日本人から見て)ギャルサー臭いのも親譲りでしかない。

一方、日本人の若者は、昔ながらの鉄道カルチャーとかおたく文化みたいな、そういう昭和のカウンターカルチャーの流れがあるからこそ、親の世代とは異なる文化を好むのである。私の感覚知的には、首都圏の日本人の若者は公共交通カルチャー消費も露悪趣味消費も無関心で、オタク志向が高いと思う。例えば在日外国人の人間は最近日本で流行のオートバイカルチャーに疎いか嫌いだ。

1990年代~00年代前半の日本産で日本で消費されたサブカルの象徴でもあるJR・都市私鉄文化が前は国鉄文化だったというのと、地方私鉄系のそれは似ているかもしれないが、でも例えば都市部のJRや私鉄で云うところの京急名鉄や京成はJR九州のまねをしなかった。表現はともかく構造はサブカル階層が日本限定の昭和バイク文化を現代風に改良したのと似ているかもな。

いずれにしても昭和のその文化は、いわば「日本のご当地」だった。それは「ご当地文化生産者」がいて、地元の生身で体験する消費地やイベントと連動性があったのもそうだがメディアも違った。1980年代の日本のオタク文化とかサブカルも日本ローカルだったし、アキバ系シブヤ系も当初日本限定だった。

なぜ日本人が日本の鉄道カルチャーから離れたのか。いま鉄道を楽しんでいるのは外国人か帰国子女か一部のオタクしかいないし、外国のサブカルを手本にしているサブカルオタクの生産者に話を聞くと肩身狭そうな印象があるんだけど、その理由を考えると、時代が変わった以上に昭和の時代と違って収束化が進んでそもそも進歩できる余地がなくなったのも大きいと思う。

逆に外国産のサブカルの場合は、日本では発散状態で、まだ歴史の浅いものが多いので、革新的なことがやりやすいのかと。例を挙げるが、現代のバイク文化は地方でも収入がない者にとっては成り立たなくなっている(地方から都会の順に珍走団や日本の伝統的裏社会が滅んだのも恐らく地方の貧困化が原因ということに似ている。)のだから比較的カネの余っている人間に浸透している。

少しでもの昔とは逆転していて、しかもであるとは思うが、大学生などのサークルにおいて例えばオートバイ好きサークルは都市部出身者で増加傾向にあり(オタクと言うよカルト集団的に影が薄く、変わり者も多かった)、鉄道サークルは地方を中心に増加傾向にあるのは、つまりそれだったんじゃないかな。

とにかく、「地域文化」や「主流文化」を一括りにするポスト20世紀型の発想いい加減やめたほうがいいんだよね。昭和なら、地方の存在を無視して東京で勝手に作って東京で消費する文化だけを誇張して伝えられたけど(それはそれで問題であったが)今、東京で生産して地方人を中心に消費されているのが日本の都会の鉄道消費文化の現実だ。

東京の鉄道文化の最大消費者が神奈川県住民であってもいいように、日本の文化の最大消費者が日本人である必要はない、むしろ外国人ほど都合がよく、以前のような日本文化と違って外国に持ち込むのはダサいと敬遠されることもない。それが日本産のサブカルであれば、その消費者序でに生産者も外国人に移すべきだし、明日にでも日本のサブカル産業を一度まるごと全部、外国人に跡を継いだほうがいい。その文化が活性化する最善の手段だ。

例えば、韓国は一回韓国産サブカルの色を全部消した方がいい。空っぽにして、国産サブカルを抜いた韓国に何が残るかを一度世に示すべきだ。それが実際に韓国人が作ったり楽しんだり愛している文化なので。本当にその辺を考えると、今の日韓の現代文化の醸成には嫌悪感しかない。

極論を言えば日本の私鉄社会はアメリカでも成り立つ

たとえばTPPが発効された時、あそこで幅を利かせている鉄道は土着資本の鉄道くらいしかなく、いまさら車社会に戻りたい地域もないし、仮に日本型の都市私鉄文化がアメリカ人の気まぐれで受け入れられても、常識的に考えてそれを輸入する手段って何もないわけだけど、もしこの文化に国際的な普遍性があれば話は別よね。

もしもアメリカに日本型の都市私鉄が進出できれば、多くの日本人鉄道オタクがアメリカを訪問するよ。ワシントンの地下鉄が日本の私鉄に買収されれば、バスや地上鉄道との競争も激しくなる。こんな正夢他にない。これって本当にすごいことだよ。

アメリカの人口分布は日本より格差が激しいので、人口が少なくてなおかつ田舎だからできるビジネスの殆んどは不可能で、民営になるから運営が不安定になるけど、民営だからこそほぼ自由な運営が可能なのが私鉄文化の強みなので、だいたいこの問題もないし、それこそアメリカで成り立つ日本原産の産業や文化の一つではないかと思う。

すごい非現実的な話をすると、アメリカには旅客鉄道の鉄道なんてほぼ寡占状態だし、鉄道運営を目指したいエリートは日本の都市私鉄を一度視察すればいい。どうせ同じ新自由主義の国でしかもアメリカでは失われた産業だから、日本におけるそれをアメリカナイズすればそれもアメリカでできるし、富に余裕のある都市部では大きな問題さえもない。

今日本で流行の観光列車も、あの運営の土壌だって、その土地発である必要はない。人種の違い、文化の違いなど関係ない。大学生時代に動画サイトで豪華列車が定期的にJR線を走っていた時代の様子を見たことがあるが、車両の内装は日本かぶれしているし、ルーツはむしろ欧州の夜行列車だと知って驚いたのだった。

東京・名古屋・大阪・福岡にある都市私鉄文化・都市私鉄ビジネスをそのままアメリカに輸出せよというのはさすがに極端なことだが、でもそれでも成り立つ。社会主義国でもないし、そもそもアメリカの新自由主義自体一時期日本でも受け入れられていたのだから。まあ現代は新自由主義自体かなり下火になっているけどね。

とにかく日本は日本のあらゆる国産サブカルを独占しすぎで、それにもかかわらず、一番の外枠を今は国産サブカルがコーティングしているがゆえに、国産サブカルばかり露見しやすくなっていて、結果的に日本特に東京の文化的豊かさや可能性さえ削いでいることが、JAPAN嫌いの日本萌えとしてはムカつくの。

と同時に、文化的主体性を失い、産業を失い、衰退しきりの日韓の問題を憂慮しているので、日韓サブカル系事業者の国際化を促し、「国際化はポップ・サブカルチャーだけでなくサブカルも逃げられない」という当たり前の常識を確立することが、外国にとって産業面でも文化面でも大きな価値があることも注目している。

日本の車社会については厳しいこともツイットしたが、それが今までにない、いい仕事をしたと思うのは外国にその子孫を残したこと。とくにアメリカやヨーロッパといった日本以外の地域(というとネット原住民に突っ込まれるようだが事実なので)に自らの種をまいたことは、親の日本が死んだ時の保険になるだろう。

バイクの趣味文化もいい加減日本の地方を撤退して都会とかで復活させたほうがいい。「地方と言えば車、都市といえばオートバイ」みたいな分業ができるだけでも、日本の自動車・バイク業界は都市・地方ともに異なる共栄ができていい。選択肢は多い方がいい。

日本人が警戒すべき「グレる優等生」の台頭

軍事趣味をこじらせて日本人からのひんしゅくを買っている女性声優達は軍事系作品のキャストで、しかも主要キャラクターの担当でもあった人だ。中には高校生時代からの筋金のガリベンの経歴を持つ者もいる。

このアニメ作品だが、正直デザインが割とカッコいい。サブカル好きから結構人気を博しているそうだが、これらも割とファンタジー系の感覚と比べればクールな感じがある。これはちょっとリベラル派は危機感持つべきだろうな。

日本のリベラルがこれまでサブカルをバカにできていられたのは、彼らがみんなエリート趣味をこじらせたDQN階層とか中流階級だったからである。つまり、目立ちたがり屋レベルのダサい人間しかいなかった。なので世間の白い眼を浴びるほどサブカルはマイルド化した。

しかし、DQN的なものと無縁で、偏差値の高い、持つ層で定時制だの通信制だのの大学卒業ではない本当にエリート系のサブカル職が、もし洗練された雰囲気の右翼趣味だの不良趣味にはまったら、きっとそれに抵抗なくますます染まる危険性がある。これが怖い。

「ガリベンで最終学歴は有名名門大学卒業で、今や知らない人は知らない売れっ子」という人がそんな趣味にはまれば、たいていの日本人は怪しむことなくスゲーカッケーとなるはずだ。

 

近頃相次ぐエリート系大学生による特殊犯罪事件は「異常事態」として大きく報じられた。私はこの時に、まずいなと思った。例えば従来の私営賭博や特殊詐欺や組織犯罪のイメージは、学歴情報から目を背けたくなるような経歴の職業犯罪者が主体になるものだったが、容疑者達はいずれも大学生や大学院生ないし元大学生や元大学院生で、裏社会とは無関係だった。つまり俗にいう「エリート層」で「高学歴層」である。

事件報道の度に、ヤサグレる若者の映像が出てきて「そもそも"グレる"とは何か」という振り返りがあった。これがヤバいと思った。いわゆる非行ではないが、露悪趣味に走るような世代たちが、うっかり感化されそうなリスクを感じたのだ。「特殊犯罪」という字面も言い換えるべきだ。

何度となくエリート容疑者や不良の「非行シーン」が出てきて、グレるだの特殊犯罪だのという日常離れした(ワルガキの感覚からみて)カッコよさそうな言葉が出てくるわけである。これは、小学生が見てもダサいだけの裏社会の報道よりもヤバかった。

今では、中国地方や新潟のような一部の田舎や東京のような極端な都会に行けば、珍走団はほとんど見かけないが、特殊な趣味に走りやすいエリート層はどこにでもいて、どの都道府県にもエリート向けの大学がある。

しかし、昔の日本はエリート社会は大衆化していなくて、珍走団もまだ活発だった。

当時、1990年の前後に多くの珍走団が東京の不良の犯罪をネタ消費するかのように真似したような光景がきっと各地の片隅にあったんだろうと思う。

どうも2010年代という年代は、日本において「グレる優等生」の萌芽があった年代だったんではないかと思う。声優に限らず俳優にもいえるのだが、いわゆる不良系の映画だのドラマだのにおける俳優の抜擢もそうだった。なんであれがまずいかというと、中の人が高学歴ばかりだから、変な理由で感化される奴が出てくる恐れがあるからで、警戒心がなさすぎではないかと思う。

 

とあるネット原住民が「不良趣味を演じる役者に学歴など関係ない」などとコメントした件はかなりまずかったと思う。高学歴化が著しいアニメ界隈の消費者がコレってどうなのという感じだった。

一部のリベラルなどはこのような現実に対する危機意識が徹底されているが、アニメの消費者一同はむしろ好意的な評価をしているようにさえ見えるのだが、おそらく個人がトンチンカンなことを言っているんじゃなく、この集団はこれがスタンダードなんじゃないかと思う。

おそらく今後2016年現在までに実写映画ないしドラマになったヤンキーもの作品がアニメ化(その逆もあり)されて、そのキャストに高学歴者がずらりと並んだら、何らかの物議をかもすようになると思う。サブカル界隈どころか、メイン階層ですら、ネタ感覚で旋風とやらを煽ってそのキャストを評価するに明け暮れる光景も想像できる。

日本国内外のリベラル、年配層、歴史や文化に詳しい人などはそれでもずっと戦い続けるだろうが、日本においては、そういう風な正当な批判的思考や闘争心を失ったリベラルやエリートのユルサとか善意の隙が「グレる優等生」が台頭させるんだろう。気付けば全体が下に振り切れる。

因みに左翼版艦これ?の終末のイゼッタのキャストもやたら高学歴層が多い。涼宮ハルヒの時代みたいな古臭い野暮ったさはないし、主人公のパートナー役は専卒ではなく高偏差値大卒だ。もし日本でアメリカみたく、裏社会やグレる人間の高学歴化が加速したら?その対策は今から必要だろう。

私と妹の小中学校時代の経歴

驚くべき事に私(1985年2月27日生まれ)とその妹(1986年1月21日生まれ)は非行経験者だ。と言ったら貴方達は怒るだろうか?

しかしながら、これは事実である。
最近までの価値観でおかしいと認められるようなものといえば1995年の夜行バス利用(確か大阪-横浜or東京便だった筈)である。両親の転職・転勤の都合上の引越しだったとはいえ、安値で新幹線の切符を買えた、貧富の差のあまり激しくない時代に、わざわざ小学生の子供を夜行バスに乗せる必要などなかったと思う。高校時代に動機を聞いてみたが、「流行の移動手段だったから」と返された。「運賃が圧倒的に安かったから(新幹線で大人一人1万円台だったが、バスでは4000~8000円台だった。)」でも合理的なのに、どうしてそう答えたのだろう。両親の性格を一言で言えば、「手間のかかることが好き」である。(呆)今では未成年が夜行バスで移動するのは日常茶飯事だが、当時はこれだけでも批判されるのがざらだった。
ちなみに小学校から高校まで全て公立出身である。

何故非行経験のあると表現したのか?

これは、かつていじめっ子の経験があったからである。
実際に、中学生時代の時には弱そうな同級生を脅したり、自転車で引っ掻き回したりしたこともあった。現在の小中高生がさすがに同じようなことが出来るとは思えないが、そのようないじめも当時はあったのだ。妹にいたっては、唯の脅しでは可愛いもので、不良をも巻き込んだ弱い者に対する文字通りのおらつきという不良まがいのいじめまでしていたという。なお、高校は私は中堅クラス、妹は進学クラスを出ていて、高校時代以降は特に目立ったいじめをしていない。

また、現代の価値観では想像もつかないことだと思うが、私と妹は当時(それも小学校高学年!)からキモヲタ趣味にはまっており、それもPTAから警戒されるようなものだった。

私と妹は小中でそのような問題児を抜け出すことが出来たが、当時はそれを高校時代まで引きずっていた人もいたという。そう考えると、いわゆる元ヤンと言われる連中よりかはかなりマシなのだろう。

私はオタクをかばう一方で、不良をたたいていたというが、私の小中学生時代が不良そのものならば、私の行っているAmebaブログやtogetterがこのように批判されるのは仕方ないだろう。

車精神と「ソトのウエ」を煽り続ける似非大衆文化の問題点

togetter.com

 所謂畳精神におけるこの左右両翼の認識の違いを図式化したやつをみて、真っ先に思ったのは「車精神の非右翼性」だった。車は内には存在しない。家の外でなければならないが、地面から高床式で浮いた上位空間に敷き詰められているというわけではない。建物によっては居住空間よりも道路の方が一段低い場合もある 。

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その点、たとえば例えば自転車やオートバイであれば内側に置ける場合も当たり前である。つまり内側でもオブジェクト的な感じで用いられているし、家の飾りとして自転車を所有する富裕層も当たり前にいる。コスプレイヤーなども同じ。鉄道に於いても改札の存在は、私的空間と公共空間を識別するための装置だ。

しかし車はそのまま家の内側即ち人間が寝たりする場所に配置することは不可能で、排ガスによる汚れなどは承知の上で家の内部の例えばリビングみたいな大きな部屋を用意してそこに車を駐車する、ということはありえない。車庫という明確な左右分離は必要不可欠なのである。

車社会文化をあえて嫌う人は私(兄)と妹の現存する実家である関西や東海や地方都市にも大勢いる。関東のような大都市の方が多いと思う。そういう人々を見ると、例えば自転車の場合は折りたたみ式のスポーツバイクで、部屋の広さやエレベーターの有無によってはそのまま家の中の工具入れのクローゼットに格納する人が多い。オートバイの場合は重量やサイズにもよるが、自転車の駐輪場みたいなところに駐輪することが多い。外国でも同じようなスタイルのはずだ。エンジンを切って押して歩く場合のみを考慮すれば内側に格納してもよい。

車好きがよく、「KカーやVIPカー」とか、何かにつけて順位を過大評価して尊敬・謙譲する。そのような関係が日常化するのはVIPカーがソトかウチの下位の存在だからで、彼らが鉄道などの権力を糾弾するのはそれが内にいてかつ上位の存在だからだろう。

車は左右や内外の関係だが、鉄道には国鉄とか公営鉄道に権威があるとされている。これは右側の上位であり、外で劣位にある人たちを無視し、そして底辺車という虫けらのような存在を糾弾しながら対等な存在である左を「邪魔」と叩く。車とは世界が違う。

 

 この縦横関係と空間認識が一致してしまった例が、車・バイクマニアの間でサーキットを走る痛車や痛バイクが「暴走族の猿真似!」と大炎上した件だ。車・バイクオタクにとっては内の上位として見下される芸術文化が、ソトなる道路空間へ入ったのに激怒した。

このペイント車両の写真や映像では、移動する物らしからぬ"奔放な"塗装をしていた。躊躇せず車体にキャラクターの絵が描かれていたり、マフラーが外部に露出していたり、無造作に空ぶかしをしていたり、変な装飾がついている様子は、公共空間を走る物としての車やバイクに対する従属精神や作法と無縁だ。

車・バイクマニアたちはヒエラルキー由来の意識があることに加え、そうした精神的ソトの外部による自分の内部空間への「蹂躙」が許せなかったというわけである。そう考えるとあの異様すぎた炎上の原因には納得がいく。これに加え狂信主義者の特殊な暴論と気づかずに流されるネット原住民も少なくなかった。

普通の常識で考えて暴走族がそこまで叩かれたのは、その振る舞いが公道上で行われたからである。つまり道路交通法ではサーキットでの車両の整備基準は関係ないので別である。それこそ「大体の日本人の中にも」公共空間とは隔離されたジムなどのリングの上でボクシングやプロレスに励んでいたことが子供の頃にあるはず。それを許容できないのはよほどの封建主義者だろう。

普通の常識で考えればサブカルチャー・サブカルとは固定観念をあえて覆すものである。それは20世紀の漫画やアニメの過激な表現などを見ればわかる。既存の常識、とりわけ権威性に通じるものに常に対峙することでサブカルは自由になってきてカッコよくなっていった歴史がある。

そして想像してみればわかることであるが、車やバイクのサブカルは比較的歴史の古いサブカルチャーである。日本におけるそのルーツは車・バイク文化の中でも革新的で大衆文化と縁の遠い文化の世界にある。しかもつい最近まで旧車会などのヤンキーが生き残っていた歴史のあるような地域だ。日本人にとっては今や非行に走る人は珍しい。しかも日本においてサブカルは事実上の大衆文化で、オタク差別はない。

「車嫌いの現代大和っ子が車精神を培う手段」が、まさに自転車だろう。自転車は免許のいらないバイクみたいなもの。法律でも公道上では軽車両に分類されるものだ。その時通常は道路の右側や歩道の中を走ってはいけないし、オートバイですら譲らなければアウトみたいな感じがある。

そして痛車や痛バイクの文化的な由来であるオタク空間には、富裕層がいきなりお宅になっても、縦社会はない。横社会のみだ。

そういうわけで、痛車や痛バイクの所有者はおそらくヤンキーの経験がないし、もしかすると今回で初めてその車両を走らせたんじゃないかと思うくらい、車精神と完全無縁の人生を送って来たんだろうと思う。それは自由で素晴らしいことだが、この激しいヘイト炎上連中はそれゆえに私を失望させるものであったのだ。

ネット原住民以外にもネトウヨが乗っかり、内容を精査すると一部にはオタクに好意的、オタクやヤンキー経験のあるあるいは今そういう人々も「こんなことをしてはダメだよ」という風にインスタに水を差すことを書き込んでいたのだった。私は最初から気がくるってるネトウヨやネット原住民よりその方が不安だった。

一見するとどこかのアジアの国とほど遠いような資本主義世代なのに、ヒエラルキーや縦横関係を抜きにした「精神的ノンポリ性」を共有しているからだ。公共空間とは切れたサーキットでさえ自由を許せないのはそもそも間違っているし、そういう人は、痛車バイク文化と論理性や精神性の同じ鉄道オタクやサブカルオタク、ましてや日本の文化も許容できないのか。

そうやって不意に開陳されてしまう「封建由来の抑圧的な精神」に触れることが、私にとっては一番ショックで、外国人とか、オタクと不良をちゃんと区別してそうなタイプの人すらこういうのがいるんだとか思うと、この社会はどうやってもっと良くなることができるのか、と考えてしまうのである。

で、似たような構造は「街中でのデモ行進」にも共通していると思う。いま日本では、急激に娯楽離れが進んでいて、東京から鳥取のような田舎まで、リアル空間からランドマーク的存在のような娯楽がバンバン消えている。おたく空間も消えているが、だが政治運動や過激派思想は逆に大きくなっている。

たとえば保守団体の徒歩デモ。反韓国デモの中でいくつかの旗を振り回しながらデモ隊が公道を公安の先導のもとに行進する風景がある。パレードみたいなものだが、このデモ行進に必ずあるデモ隊が旗を振り回す光景は、車精神そのものだ。旗を振り回すなどをして示威行為をしているわけだ。

普通に考えて公道上で旗を振り回す行為は、昔ならばバイクを乗りこなす珍走団や暴走族が敵対する同じような集団に対する挨拶行為まがいなやり方である。2011年以前はそういう認識しかなかった。それをやられてうれしいと思う若者がいたら、それは不良予備軍であるし、ヤンキー精神に屈するようなものである。デモの風景として罵声やシュピレッヒコールなどの物凄い爆音を伴うことが多いのもいかにもだ。

旗を振り回すデモは左翼界隈にもあるが文化空間では自動車やオートバイや自転車を描いたものも多い。つまりこれらは道路の上で執り行うことであり車精神である。そのうち路面電車とか車椅子とか家畜とかも出てくるだろう。それを求める囲いがいるのだから情けない。

また、あからさまなイデオロギーを煽る「メッセージもの」として、オカルト作品も増えている。志倉千代丸氏原作のオカルティック・ナインはまさにオカルトを描いたもので、氏のSF的イデオロギーを抜きにしても、フィクションによるオカルト美化の作品だった。しんきくさいジメジメ感がいかにもオカルトらしかった。

そして旗振り系のデモ参加系の政治思想家と、オカルティック・ナインシュタインズ・ゲートハリー・ポッターを見たがるオカルト好きのためのSFファンタジーの「チャンポン」ともいえるのがマクロスデルタだったが、いかにもこれはオカルト臭いリベラルが喜びそうな内容であった。

車精神に起因する社会運動の顧客層(プロ市民やその"下半分"も含めて)には必ず共通点がある。それは趣味や娯楽をもたない層であることだ。政治そのものが毛嫌いされてきたような時代から、あえて逆張りで、できてまだ10年も経ってない地元の政治運動に没頭し、どこかの繁華街でこうしたデモ行進に参加しまくるのである。

こうした野蛮人と相性がいいのが、「ヤンキー村社会」である。公道でのデモ行進での旗振りはまさにそうで、昔なら一部の物好きが煽っているにしても、現代では必ず万人が横並び一律で見て当たり前で、その同調圧力と他の選択肢のなさがこの光景の持続を支えている。しかし公道を離れればまるで無名だ。

「ヤンキー村社会」の中心核にあるのが「封建社会」ではないかと思う。彼らの精神の中心には封建主義があって些細な文化にさえその名残があるように、ヤンキー村社会の中心に封建的社会があるのである。昔ならまさに渋谷や池袋で遊んでいたようなギャル文化のとっつきにくさとヤンキー文化のとっつきにくさは似ている。

現代化された「封建社会」とは、正しく車精神ではないか。オートバイが自動車に斜線を譲るような感覚があると思う。ある意味縦社会である。その信仰が車社会には根強い。

不良文化が一部地域を除いた日本の各地で旋風を巻き起こしたように、車精神そのものの文化には、管理主義であり、国際主義であり、普遍主義であるのだ。

そとの結束はそのように弱体化されているのだが、逆に「うちの結束」はより強化されているのだ。

最近起きているデモ行進における、この手のイカレポンチな発想は過激派空間の片隅で発生したムーブメントというよりは、むしろヤンキー的発想だと思うのよね。

SEALDsや在特会だって、若いころは文句なしの社会活動家集団ではない、むしろ頭の不自由な人間達の集合体だった。デモ行進を誇る以前にはスポーツや趣味を振り返ったりしていて、商売に対する見識も広そうな人だ。恐らくこれは、ネット原住民型の人間だと思う。

公共空間に最近やたらとカウンターカルチャー由来のものが増えている。最近はチャラい人やギャルサーに対する抵抗感がなくなっているし、車やバイクでも、最近の鉄道車両如くデザインや美術面での競争が進んでいる。しかしそれはヤンキー文化や縦横社会を源流とする文化というか、正しく車精神の方向性を煮詰めたようなものを感じる。

 いわゆる2010年代サブカルと1990年代以降の珍走団はベクトルが違う。2010年代サブカルの例えばSEALDsは「ノンセクト・ラジカル・ソフト・マイルド化した珍走団」と言ってもしょうがないが、後者はどっちかというとサブカルチャーにおける反骨文化ノスタルジーを煮詰めたようなものである。で、「SEALDsや在特会の旗を振り回し、スピーチなどの爆音をとどろかせる光景」はコッチ由来だ。

日本の野党やアメリカの民主党が戦略的に下手なのは、そういう車精神の人が強烈なヤンキー気質であり、ゲリラデモやにわか暴動のひな型が日本で言うところの暴走族文化にあり、最大限にして唯一の娯楽や活動空間が公共空間ということが多いということを熟知できていないことではないか。だからSEALDsにせよ在特会にせよ、中途半端な形で失敗に終わった。

車精神と「ソトのウエ」を煽り続ける似非大衆文化が、結果的にアナキズムに直結している。文化的貧乏人になっていて、その先に「意味不明な事件」がある。こういうネットの片隅の空間と一握りの心無い上層階級の相乗りで繰り広げられる得体のしれない反良識文化に、そろそろ誰かが追撃してもいいだろう。

メディアとネット原住民だけが勝手に煽るレールハラスメント批判は文化侮辱と同じだ

クレーマーまがいな「他者を糺したい欲」を満たすための幼稚な暴論を許すなかれ

「レールハラスメント批判批判」はハッキリ言ってPCに通じるような極めて危険な言説だと思うんだよね。私は完全否定するよ。こういう野蛮な風潮に与したくない。

「レーハラ批判批判」がクソな点は、低劣なソースロンダリングの産物だということにある。外国人が麺をずるずるすすることを不愉快に思うという事実をまず海外の反応系まとめサイトが記事化し、それをマスコミが後追いした。その情報番組の実況視聴者(ネット原住民)がわめくとまたぞろマスコミの情報番組が、後追いしている。この手の番組はかつては普通のワイドショーで、番組冒頭に文化の紹介をするなど、どちらかというとセンスがいい部類だったが、現在の放送内容はただの意味不明な番組になってる。

本来マスメディアには低劣な発言空間を突っぱねる主流言論の発信装置の役割があるはずだ。ネット原住民空間はそもそも議題設定に偏りがあるし、匿名の特殊な人間たちのルールなき好き勝手な発言の中で発生する多数意見は汚物のようなものであるから、それを受け入れること自体が危険だ。にもかかわらず、一部の国粋主義的ネット原住民(つまりネトウヨ)やそのネトウヨの周りにいるネット愚民が勝手にどうでもいいことに気づいて勝手に難癖つけているだけのことであるレーハラ批判に対し、それこそ無批判にそれをそのまま鵜呑みにして煽ること自体が、本来許されないことである。

私はリベラルの一人として、近頃のメディアの「下流階級巻き込み型の暴論」に抗議したいし、異議を申し立てたい。こういうことをまかり通らせた先には、多文化の排斥、破壊、消滅しかない。成熟した社会を否定させるようなことを公共の電波でするべきではない。

アメリカ文化を勝手に自国化する低級日本国民の傲慢さをまず疑え

 では、マスコミが迎合したこのレーハラ批判の問題かと言うと、そもそも鉄道の本質をわかっていないことにある。都市開発を独断で行う鉄道の発祥国はイギリス、日本に現存する私鉄不動産ビジネスの発祥国はアメリカだ。しかし、その米英には民間の鉄道会社が不動産で利益を上げる習慣はない。つまりこれは「アメリカ文化を勝手に日本人がねじ曲げている」ことなのである。

そしてこの行為を、アメリカ人は批判していない。実際アメリカ人の多くは日本に旅行にしたときに私鉄を使いたがるし、日本発祥の通勤電車がアメリカには多い。異なる日本文化として受け入れる「大きい器」があるのだ。私鉄だけに。しかし、その日本人が、金儲けをする好意を否定するのは本末転倒である。

ネット原住民とマスメディアの謎の共通点が妙な「日本文化としての私鉄信仰」の高さだ。ネット原住民は公共交通をまるでテーマパークに見立てたような商売の鉄道会社(どことはいわないが)の魅力をやたら語っている。以前ネットでは「ヨーロッパの私鉄のトンデモ」を嘲笑するまとめをやっていた。

さらに云えば、最近話題になっているクルーズトレインも日本の伝統ではない。欧米文化で、日本での大衆社会に広く親しまれた歴史は約30年間ほどでしかない。しかも、鉄道の娯楽利用を売りにし出したのは2013年代以降の数年の歴史しかない。完全虚構だ。

しかし「九州発21世紀行き」JR九州じゃないが、このたった数十年あるいはたった数年で作られた即席すぎるジャンクなカルチャーを、ネット原住民はともかくとして似非オタクやリア充はかなり強烈に依拠していて、「お前らの先祖に謝れ」と発言した鉄道オタクに「貴方はアンチですか?」と絡んだりしている。

私も鉄道オタクだし、都会育ちだから私鉄社会(私鉄文化批判は2016/11/14に撤回)に割と親しみがあるので、だからこそあえていいたいのが、あくまでもジャンクカルチャーであり高尚な伝統もなければ他者を殴る動機になりようがないクルーズトレインをそこまで神格化するなよと。こんな奴らこそ同じオタクと認識したくないんだよね。

レーハラ批判は「地方差別」でもあり、忌まわしき車精神でもある

そしてこのレーハラ批判は、あたかも私鉄であればあこぎ商法に走らないとおかしいかのような前提で勝手に煽る、何ら生産性のない暴論だが、同時に地方差別の助長でもあるのだ。実は地方の人たちは私鉄が村社会を築く文化はあまりない。大体大手私鉄は地方にも旅客路線があるのだから配慮しろよな。

地方都市の私鉄路線の沿線風景を見ると、私鉄資本の不動産はない。せいぜい百貨店かテーマパークくらいで、多くの場合よその資本であるという。私鉄が熱心に不動産開発をする習慣のない地方の人は、私鉄を都市利権化させることができないのである。

そして地方の私鉄の隣には車社会がある。世界標準の都市構造だ。アメリカやヨーロッパの都市開発に習ってそうした歴史があるのだが、その開発の発祥地であるアメリカではやはり私鉄が不動産開発する習慣自体がないので、「日本では私鉄が不動産開発しても良い国なんだよ!鉄道を搾取産業呼ばわりした連中は黙ってろ!」的暴論は筋違いにもほどがあるよ。

そしてこの「私鉄による都市利権の寡占・独占をやたら庇う精神」は車中心社会に固執する発想と同じである。公共交通の役割が明確化されている地方都市にはアーケード街の車の交通量が少なく、やはりそれは外国の大都市の繁華街と共通性が多く、アメリカの都市は歩行者優先で、繁華街に車が乗り入れることこそマナー違反で、繁華街の道に人を歩かせない発想こそ許容しがたい。

「レーハラ批判」をやる人達は、欧米人への拒絶であるだけでなく、同じ日本の地方住民や、私鉄だけでなく日本文化の形成に多くの影響を与えた資本主義との融和さえ拒絶する、対立と多様性の破壊を煽るだけの百害あって一利もない暴論なのである。

地方差別や外国侮蔑の情報が平然と垂れ流されているし、「鬼畜米英」も拒否し、単一な愚民の誇大妄想でしかない日本スゴイ神話の自画自賛ばかり蔓延するメディアってもはやネット原住民マトメ豪華版でしかなく、存在価値ないと思う。ネット原住民もろとも変えないといけない。

余談

ていうかそれ以前に、誰がどう考えても鉄道会社が都市利権に口を挟む文化って日本人の感覚からしてもダサイでしょ。私鉄主体の都市開発とか時代錯誤だし。日本とか東洋とか西洋とか関係なく、人類普遍の文明として一企業が都市の牛耳る経済ってあまり推奨されるもんじゃないし、まして「負の弁護・兼・自画自賛」するものではない。

理屈である前の感覚としても、あのように鉄道会社のような都市密着企業に過ぎない産業が都市のあり方を家族が牛耳るような社会のは昭和時代の裏社会のようだし、公権力に癒着するような不健全さを連想するものである。「日本の習慣だろうけど、推奨されるもんではないし、時代遅れだからもう改めないか」ってなるのが普通の良識的反応だろ。マスコミとネット原住民はその意味でも野蛮だ。