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ボンダイ(ボンK日報)

あれやこれや

車・バイクから「娯楽の価値」がなくなりすぎている

鉄道 社会現象 バイク 自動車

車・バイクは、その誕生経緯以来ずっと、鉄道をフォローする乗り物そして畜力や人力に変わる乗り物、それ以上に娯楽の道具として発展に尽くしてきた歴史がある。世界的に有名な外資自動車産業だってその技術力は日本の鉄道顔負けだ。しかし、その車・バイクから娯楽性の排斥が起きるのが今の時代だ。

どうも、車・バイクが「国民的娯楽」であるとも思えなくなってきている。実際車やバイクは公共資産の印象しかないのだ。やたら規制や基準が細かくなっているのも、比較的寛容な鉄道に比べると敷居が高いように思える。

あの「格安駐車場駐輪場ブーム」とか「自転車を卒業した都市の中流」の掛け声は、価値観の変化の裏返しなんじゃないか。私みたいな日陰者の特徴は、他人を罵倒する時に自分自身のコンプレックスを相手にぶつけて開陳してしまうものだ。社会が本来持っている本質的な価値や優位性の喪失が見える。

車・バイクの要素を代表していたものが「楽しみ」でないかと思う。まだアジア車が知られていなかった時代では、軽自動車や中型バイクひとつとっても楽しさや個性にあふれているという良いイメージが日本人の中にもある。しかし、近年では、そのボロが出て来ている。外国車やマイナーな車種はぜんぜん楽しみがないと。

いまの2016年の日本の常識としては、日本を代表する多様性娯楽は道路の乗り物より鉄道だろう。やたらビジネスに積極的で、とくに差別もない。リベラルな社風だ。それ以外にも、多様性が共存して繁栄するものといえば日本にはサブカルもある。

そしてことし私鉄化したばかりのJR九州は日本発のクルーズトレインを生んだとして話題を呼んだ。地方の企業だ。国鉄自動車産業の影響の残る関東で初めてこれが実現することなどありえるだろうか?どうも私には自動車・バイクより鉄道業界の方がそういう意味でも進んでいるように見える。

鉄道は世界共通のサブカルチャーになるか?と言う前に、韓国やロシアでも鉄道趣味は普通に合法だし、鉄道の歴史の長い国はたくさんあるのである。アメリカ合衆国においても、膨大な歴史の中で階級社会などが構築されて保守的で封建的な私鉄を脱して車社会化が進んだ国だったが、今のアメリカの鉄道社会は進んでいる。

良く言われていることだが、自動車やバイクは多国籍産業である。本社の国、考え方はさまざまで、同じ欧米でもアメリカ製やフランス製でコンセプトが大きく異なる。つまり中古車にいけば外国者に出会えるし、日本製だって軽自動車ひとつとっても多様性であふれているのだ。

自動車と言えば技術革新が進んでいる印象がある。しかしそれも最近は事情が変わっている。1980年代のまだ国鉄が健在だった時、排気ガス改善に取り組めた乗り物はここだけしかなかった。しかし今、船舶・航空・鉄道などでもエコ競争をやっている。

エコ競争だけではない。豪華さの売り出しも自動車一強の時代もあったが、2000年代以降は、JR九州近鉄といった日本鉄道業界で始まった娯楽列車が全国的にヒットして自動車・バイク業界に輸入され、そして自動車・バイクフォーマットが後追いで作られることも当たり前になっている。

近年の鉄道は田舎での売り上げが向上しているという。私は走るんです世代だが、あれはもともとJR東日本の車両で、その先端性も鉄道業界でヒットしていた。企画化もJR東日本発祥で、当時は関東地方各地で鉄道工場が盛んだった。だが、JR東日本で使われる車両は地産地消とは限らない。

最近サブカル化で話題になったオートバイだが、珍走団が絶滅したのがつい昨年のこととはいえ、それ以前から需要が伸び続けている。一時期ほどではないとはいえ、国内最大手のあの小型バイクも新車開発は健在だ。

田舎の娯楽も「車社会の時代」であれば自動車・バイクが一番強かったが、いまは鉄道の時代で、このような娯楽に熱狂するリア充は今の方が盛んであるし、有力なイベントは都市でも行われているので、今や鉄道は消費物の1つにすぎないんではないか。

最近のオタクは、鉄道を好むオタクを「邪教の教徒」だとみなす傾向があるという。これは2000年代にはありえなかったことだ。後半はともかく前半では大都市部でも珍走団のイメージが大きく、若者からの印象は低かった。当時は都会の中流でさえママチャリが元気だった。

だがやがて珍走団が滅亡を迎えるとまず上流階級からママチャリが姿を消した。いま日本各地で、高校生がオートバイを、大学生が軽自動車を楽しむ風景がふんだんに広がっていて、30代の社会人になって車に疎い私達がよほど田舎者ライクで遅れた気がする。それくらいに現実が変わっている。さて、車・バイクの価値とは。

近代の日本の都市発展は民間鉄道外車がリードしたが、最近では都市部を中心に売り上げが頭打ちになっている。これは混雑緩和でも人口集中の結果でもない。大都市部でもバスや航空機の乗客数は増えつつありマイカー(特に軽自動車やオートバイ)は数が増えているが鉄道の乗客数は頭打ちになっている。

自宅から近い東京都中西部でさえ公共交通が元気なのにオートバイ所持が解禁されているのにはがっかりした。鉄道は娯楽として活用され、自動車やオートバイは日用品に落ちぶれているというのは、最早その地域自体を含んだ日本全体の流れだろう。で、私鉄マネーによって繁栄したはずの地域がいまや道路が車地獄の十歩手前状態なのだ。

つい最近までファスト風土が地方限定の文化だった。この時はまだ都会の私鉄の存在感はあった。だが、いまや大都市部のダウンタウンすら、某家電量販店や某古物商など、ファスト風土由来のものだって多い。それありきではない。

もしも車やバイクが1960年代以来その追及を続けた「娯楽の価値」を捨てたらどうなるのか?災害や時間帯などのリスクに邪魔されない便利な道具であることしか誇りがなく地元の周辺の可視範囲以外の世界を全く知らない愚者はそれでも普段と変わらず生きていくだろうが、まともな主流国民が岐路に立たされる。

自分自身が障碍者ないし様々な意味での貧困者や異なる価値観などの持ち主である場合、車やバイクを捨てることさえありえるだろう。今の段階では鉄道は比較的不便な代物ではないのだから利便性に固執する必要はない。もといた乗り物が不都合だから道路交通に渡ったに過ぎない人たちは、同じように他所に渡るだろうと思う。

たとえばやっと公共交通が力をつけたJR東海沿線や仙台なんかそのようになる可能性が高い。インフラの立地の都合もよく、名古屋や仙台などはもともと道路が広いし、地下鉄は路面電車の跡地を走っているから使いやすい。鉄道社会の成り立ちの歴史を学ぶとまさに世代交代の歴史だが、同じことが続くだろう。

そうやって消費者が移動し、生産者が移動し、モノが移動し、カネが移動し、最悪鉄道業界が空洞化すればどうなるか。私鉄社会自体の斜陽化である。日本では戦後多くの開拓地で人口増加に目をつけた当時の田舎者が鉄道や住宅を誘致し、成熟してしばらくして崩壊したようなサイクルが起きるのではないか。

それでも沖縄や北海道を除く地方にとっての主要納税企業は「私鉄」なので、お金があれば車社会を邪魔することができるし、実際神奈川なんかはそういった歪なインフラ発展を続けて体面を保っているが、私鉄自体が公共事業として用済みになり、やがて単なる娯楽産業に落ちぶれてしまえば、私鉄ファンの居場所がますます減り、その先には何もないのである。

このように、車・バイク・私鉄に優しいないし厳しい評価を下したが、私はいずれも好きで、かなり憧れていて、それと比べ日本の特に鉄道の現実がそうなっているにも関わらず、公共の財産意外に値打ちがつかないものとしてひとくくりにされる現実には激しい嫌悪感しかないので、そのような悪しき感覚にあれほどの偉大な社会が染まっている現実が許せないのだ。

最近の日本の風潮は文化・社会的程度を失墜させるのか?

社会問題 社会現象 反知性主義

togetter.com

 

「ケチケチ病」問題が関心が集まっているらしい。地方都市の公共交通な鉄道を、鉄道はそのまま、運行する車両を観光列車私用にするやり方は、実は世界には存在しないものだ。文化後進国・日本だけの現象である。

ヨーロッパやアメリカの主要都市では、あの歴史的な美しい公共交通が壊れることはない。立派な公共交通をそのまま大切に用いている。改修している。何らかの不可抗力(たとえば災害や戦争など)で復旧がどうしても必要になっても、消費物化することなく、公共交通としての価値を保全する。

欧米だけでなく、そんなに歴史のない東アジアでさえも、やっぱり由緒のある公共交通は景観保全が徹底されている。日本はひどい。JRなんて、建前だけでも公共交通なのに、明らかに公共交通とはいえないような観光列車が増えている。

これは過大評価でさえもない。おなじ日本でも関西や東海や関東では、都市の鉄道と、田舎の鉄道では営業の考え方が違う。要するにゾーニングがされている。

九州の場合、鉄道が消費物かされるばかりの状態がずっと続いている。すでに利便性の水準は西日本や東海のローカル線に抜かれているというのに、しっかりとした車両を廃車にして気持ち悪い新車を走らせている。バカげている。その労力をスピードなどの勝負に結集しなければ、一流の私鉄になれないはずだ。田舎の鉄道好きも呆れていると思う。

私はオタクなので鉄道に好意的だし、ロードサイド文化に比べりゃ、車の世界ごときよりは文明の次元が違うのも事実だ。しかし外国に劣っているのもまた事実で、この課題は日本も抱えていることである。

これでも冷笑系はまだ逆張りをかますのだろう。「日本は私鉄におおらかだろ」「国政が貧乏だろ」と。そんな日本人たちはぜひ、日本以上に国が貧しく、かつ日本と同じくらい私鉄におおらかなイタリアを見てほしい。諸君が大好きな「誇らしい私鉄文化」はそのまま大切に守られている。

イタリア人にとって私鉄は、文字通りの利益産業かもしれない。公共交通として利用される日本と事情は別だ。しかしどちらも、文化的評価は別に存在し、そして公共交通は破壊されない。イタリアの場合、都市交通は徹底的に公共性と利便性重視になっている。

外観だけ保全しても、「中身」が残らなければ意味がない。財産としての近代遺産の喪失に他ならない。この程度の文化的発想もないのが今の日本で、それに基づいた法律や条例がらみのルール作りもできない。公共性を壊さないという考えもない。なにより、お金以外に何も生まない「零産業」化している現実がある。

これは「社会・文化的発想の欠落したケチケチ病」だと思う。都心の一等地に立派な不動産を保有できる私鉄が、ローカル線の公共性を切り捨てざるを得ないほど厳しいだろうか?。あるいはもしそうなら、鉄道線を遊園地にして残すよりかは鉄道ごと消し去るといい。岐阜の路面電車JR北海道JR西日本はそうやっているのだから。

日本人の社会・文化的程度を失墜させる「ケチケチ病」を断ち切るべきだと思う。本当にこれ、どうにかしないと、この国には何もなくなる。スッカラカンになる。こんな無様な国、社会に落ちぶれて行く様子を憂いてこその愛国心だろうが「不都合な現実実態を弁護すること」が生きがいの冷笑系には愛国心さえない。

学生や都市住民の「公共交通を嫌いオートバイや自転車を使う風景」の無様さ

今、日本の大都市では、一部貧乏人を除いて「公共交通」を乱用せず、自宅から一定の距離まではオートバイや自転車を使うようになっている。要するに先祖代々せっかく受け継がれている公共交通が相手にされていないという惨めな光景が、当たり前の日常になっている。

欧米先進国をあげるまでもなく、隣の韓国や中国は、もともと車・オートバイ社会だった。しかし、ソウルを始め、陸の孤島のような地域に行くと、市民はみんな公共交通か徒歩だけで最寄の駅に向かっている。道路においても、比較的陸の孤島で見かける自動車やオートバイの数は日本より少ない。

日本でのオートバイや自転車といえば、地方の風景として、鉄道空白地帯ないしローカル線沿線に住む住民が職場ないし都市鉄道の最寄り駅まで使うというものが一般的だった。しかし、今やそれこと大都会でさえ、駅周辺に昔より明らかに安い駐車場・駐輪場そしてオートバイや自転車を使う人が多い。日本の文化的程度が下がりつつある証拠だ。

大都会でさえ家最寄の公共交通が相手にされず、自転車やバイクの行進が見られる光景が果たして先進的と言えるだろうか?すでに韓国の平均的庶民に抜かれている。韓国や台湾にも似たような光景はあるが、日本に比べるとその割合はとても少ない。日本人は涙を拭いた方がいい。

当たり前だが、そんな距離なんてはしたものである。そんな長くない。もしそれでもムダだと思うなら、職場に近くて家賃の手ごろな地域に引っ越すべきだろう。なぜニュータウンの家賃が安いかといえば交通のアクセスの良い地域が多いからだ。千葉県の流山市も、東京へのアクセスのよさを売りに人口を増やしている。

身の丈にあった生活をせず、余ったお金や仕事や学業でない時間で何しているかといえばたとえば鉄道オフなのである。PCに煩くなっている日本人が、迷惑が気になるなら鉄道好きを自制した方がいいのに、それをするのだ。公共交通のあり方を考えるとパフォーマンスがあまりに悪すぎる。

私はこういう日本的庶民の日常が下から狂っていく様子。それこそ、某下流社会じゃあないが、底辺で発祥し、底辺レベルの日本人に氾濫し、中流階層に土足で上がり込んだと思いきや翌日には上流に上がりこむあの不気味な流れにうんざりしているのだ。

「貧乏中毒」に染まる中流・上流空間にたいへん大きな憤りというか問題意識を感じているのだが、こういうことを民間が解決しようとする動きはないし、公的にも啓蒙できずにいる。そういった文化を提供する側もまたスポンサーなのだろうか。

ケチケチ病が生んだ「ヤンキー文化」という愚

1970年代以降に台頭したヤンキー文化も、こういうケチケチ病文化の代表格だろう。1980年代前半に、鉄道オタクと並ぶサブカルとして発生した珍走団文化みたいなものは、今で言うマイルドヤンキー層や一握りの低俗なサブカル原住民層にまず広まった。

そして1990年代になると文字通りサブカルサークルになるようになった。彼らの中でもヘビーな層が大量に流された。珍走団から反社会性をひいただけのものである。それらが好きな人は没頭した。

日本人の誰もが知る暴走族は暴走族ではない。スピード競争意識がない。ましてや改造車が早く走るどころか、楽器もどきのような雑音を低速で撒き散らすだけ。日本人の言う走り屋という外国人でもわかるそれらからしてみれば、営業妨害もいいところだっただろう。

改造すればするほど注目されるが、しかしそうしたところで速くはならない。文字の実体がない。楽器もどきを使って音を撒き散らすような単純な動作で、チンケな囲いを集めるだけのことに、没頭する人が少なくなかった文化は、野蛮だったのだろう。

ヤンキー文化は迷信すぎる性質が売りになり、つまり「本気で文化をしないような人」に評価された訳だが、実際には、彼らは膨大な可処分時間をその文化モドキに費やしていて、ムダになっている。何より膨大な時間とお金を失っている。キリスト教チベット仏教による新興宗教批判のように、走り屋側からの珍走団批判は何もなかったのだ。

1960年代から2000年代までは、オタクなどの現代に通じる正統サブカル文化は左翼の文化とされていた。しかし、私はヤンキー文化が蔓延し始めた時代から、日本のサブカルは欧米のそれに負けていると思っていた。このままメインをベンチマークして本気の対抗勢力を作れないなら、サブカルチャー(サブカル)はいつか消え失せると思っていた。現実になったが。

ネット原住民はパソコンをカタカタ叩いているくせに、ネットで検索すればすぐわかるようなサブカルの起源は左翼にあること、左翼の歴史こそがサブカルの歴史だということを知らない。彼らは例えばアニメやゲームにはやたら詳しいのに昔の内外の抑圧の歴史を知らない。抑圧されていない時代のものしか知らない。

オタク系文化の界隈では海賊版やオタクによるいろいろな問題があったりした中で、1990年代に一気に世界中にオタク系サブカルが評価された。オタク階層に属するサブカルは、メインよりは地位が低いが、ヤンキー文化より遥かにまっとうな文化らしさや質がある。

外国は、メインにそういう高度な文化を作りつつ、かつサブ環境にはサブ文化がある。にもかかわらず日本は昭和以来の左翼発祥の独自文化を築き上げる流れを、右翼文化上がりの「ヤンキー階層」がむちゃくちゃにぶち壊し、もっと低俗な人間たちはサブカルの右傾化に固執した。

今の自公政権や右派の世界の間ではサブカルをろくに相手にしていない。みんなほとんど相手にしてない。しかし、ヤンキー層に限ると、彼らはほとんどがこのサブカルが右派の文化であると。何かに似ている。最近の大型宗教の分派を騙る新興宗教にも考え方がそっくりなのだ。

日本の主流社会では不良の集まりとしてのヤンキーの時代は、1980年代をピークに終わっている。しかしヤンキー層は旧車某なる迷信サブカルに没頭するし、それをバカにしている階層ですら、自公政権とサブカルのこじつけにはまっている。

迷信中毒からすると、日本の裏社会は今でも必要悪だというわけだ。しかし考えてほしい。この時代権力は昔のように貧弱なわけでなく、まして今やその権力サイドから営業妨害扱いされて徹底的に撲滅される時代だ。どんだけ情報弱者後進国なんだと思う。そのような時点で、あまりに知的レベルが悪い。

「負の無難」を選んだつもりが、もっとも非効率で低俗・粗悪文化で、アングラにはまる挙句の果てに前科者になったり、ヤンキー文化に没頭して右翼文化と迷信中毒のダメっぷりの寄せ集めのような廃人になるような、そういう流れを改善する必要があるが誰も声を挙げないのが不思議だ。

根本的に、そもそもまともな質があって楽しい高度な文化があれば、それに比べて低俗すぎるものは視界にさえ入らなくなる。つまりヤンキー階層はオタクやサブカル文化人を「キモイ」と揶揄できないほどの低俗であるが、ほっておけば日本社会全体が流されるリスクがある。

ひどいと身近な痛車が、いつの間にか1990年代の族車風になり、所有者が誰かのお世話になったりする。ガリベンが少なそうな地域の成人式が下品なものになる。まともな日本人は嫌悪していて当たり前のネット右翼やヤンキーが裏社会みたいに歴史的ではあるが文化化される可能性もある。

劣った反知性主義者に則られた社会を切り替える「メインカルチャー・サブカル階層」のたたかい

在特会世代以降の市民運動はその点においてスゴかったのである。この反知性主義打倒のうねりに連帯した人はみな一流だった。日本の高度なカルチャーを象徴付ける、あるいは世界的影響力のあるアーティストが、大御所タレントが、映画人が、俳優が、運動に関わっている。

逆張りヒネクレありきの「ヤンキー階層」にとっては忌むべき「ベタベタすぎる集団」であったし、それは、右翼層には左翼的だからあるいは高尚すぎてついていけないものだった。しかし、こうしたことで、まっとうな国民、左翼に生きる人々が覚醒した。

あの安倍政権時代ですら克服できない、根性論・歴史修正主義などの主義主張には、そこらじゅうのヤンキー階層などが同期したりしているし、既得権益と大半の愚者を除いた安倍政権の支持者はどういう人かも言わずもがなだ。

本質的に自由で、フェアで、豊かで、質が高いカルチャーがいまこそ重要なタイミングがない。文化・芸術・創造表現と言う形でも、画一的な現状を必ずや打倒し、反知性主義を日本人が克服しなければならない。そのたたかいが2006年に始まったのだ。

2012年PTAのバイク完全許可は公共交通破綻の前兆だった?今こそ日本の鉄道公共交通に光を!!

社会問題 社会現象 鉄道

挨拶の前に2点、皆さんに謝罪をしなければならない。

 ひとつは2012年、非常に大きな屈辱と言いますか、高校生の皆さんが敗北を喫しました。高校生にバイクはいらない宣言の完全廃止。その高校生のバイク所持完全許可に反対できなかったこと、それ以前にも声を上げられなかったことを皆さんに、まずお詫びしなければなりません。遅くなりました。申し訳ございませんでした。

 やはり知識人がひとりでも現場に立って、皆さんに対する不必要なものをしっかりと目撃し、それをネットの中で取り上げる。生でしなければいけなかったのに、それが叶わなかったこと。それをお詫び申し上げたいと。

 もうひとつお詫び申し上げなければならないのが、今までの人生の中で、都市の公共交通問題に対して、まったく自分の中で時間を割いてこなかったこと。社会の中で興味を持たずに、下手をすれば、『都会人でさえ鉄道を見限ってバスや自転車・バイクに移行するのはしょうがないんじゃないか』…何も考えずにそう思い続けてきました。

 私の場合は2013年のJR北海道をきっかけに社会の問題にやっと目を開くことができた。その中で、公共交通がどういう不条理を押しつけられているかということにやっと気づけたんですね。あまりにも気づくのが遅すぎた点も、お詫びしなければなりません。本当に申し訳ございませんでした。

 

私鉄社会も高校生バイク完全許可(3ない運動廃止)も、もう答えは出ているんですよ。実験の失敗としてハッキリと答えが出ている。公共交通とは何か。これは『公共の財産』ですよね。それを手続きとして指し示すものが損切りである。公共交通において正当な合理化である損切りで、北海道の意志ははっきりした。何度もの災難にわたってはっきりとした事実なんですよ。

 一番直近でも、なんと大阪の路面電車の末端区間が、路線を失ってしまっているんです。それくらいはっきりしているんですよ、大阪は。北海道に対しても、地方に対しても、そして都市部の私鉄沿線に対しても答えははっきり出している。

 少なくともこれらの鉄道が公共の財産ならば、このルールを前に、この現実を目の前に、公共交通が資本の玩具にされることに怒りを覚えるでしょう。当たり前なんですよ、これ。

 日本の私鉄の利用者はじゃあ利用者ではないのかという話ですが、当たり前ですよ、公共サービスの利用者じゃないですよ。見てください。いくら庶民が「やめてください、出て行け」と言おうが富裕層が乗り込んでいる。なぜ満員電車が減らないか?いったい何のために?

 いったい何のためにこの現実があるのかって?

 利用者そのものが大事なお得意様だからですよ!あなた方はお客様としか見られていないから、富裕層障碍者も子供も外国人も喜んで乗せる。外国で私鉄社会が成り立ちますか!『日本のガラパゴス』というんですよ、こういうの!

 

北海道ではもうはっきりしている。答えは出ている。でも、その実験の結果を無視してしまって、今、九州や関東などでは鉄道のテーマパーク化を無理矢理進めている。

 車社会の地域で鉄道がここまで元気なんて聞いていないんですよ。喜んでいるなんて聞いていないんですよ。蓋を明けてみたらやはり消費物じゃないか。

 富裕層は、自分の車やバイクで移動すればいいじゃないですか。当たり前でしょ?これ。どうしてこれわざわざ公共の財産でやるのか?正統な公共鉄道交通が存在しないだからですよ。1987年に日本の大多数の地域から公共の鉄道交通がなくなったんです。日本の私鉄は市民に嫌われているでしょ?特に都会では。どうしてか?日本は発展途上だからですよ。

 欧米の先進国で私鉄の旅客鉄道というのはかなり淘汰されている。実際に私鉄をめぐって多数の暴動が起きた。そういうことで大都市では私鉄の営業が大幅に制限されてしまっているのが欧米の現実なんですよ。

 でも日本では、東京駅クラスにも乗り入れるし、私鉄に都会の公共の資産が食い尽くされている。

 都会の鉄道は誰あってのものなんだ?東京の鉄道は誰のものなんだ?九州の鉄道は誰のものなんだ!?って話ですよね。

 鉄道は、公共の資産ですよ。それは先祖から受け継いで、そしてそのバトンを次にわたすために動いているんです、列車は。

 

北海道の答えはハッキリ出ている。大阪の答えもハッキリ出ている。そして関東や東海でも答えがハッキリ出ている。その鉄道の本来の存在価値さえも無視するという事態が、鉄道という公共交通システムは異常であるということをはっきり示しているんですよ。

 (鉄道好きの)皆さんがやったこと、その場にいたかはわからない。でも考えていただきたい。2013年の九州の観光列車は公共交通への裏切りですよ。

 皆さんは何のために、鉄道を愛されているのですか?

 この町のシンボルになっているから、おそらく鉄道を愛したりしているはずですよね?それは当然のこと。何も咎めなかった側に問題がある、これは当然のことなんです。

 皆さん、鉄道に向かって「大嫌い」とは言えない、そんなことをしてしまえば居場所を失ってしまうから。皆さんも共同体の中で生きなきゃいけない。それは当然のことですよ。でもね、この場所を離れた瞬間に、自分の中で、今行われていることを考えていただきたいんです。

 自分で情報を探して、一体、この国の鉄道公共交通は今どこへ向かっているのか。そしてこの九州は、関東は、どういう目にあっているかということを、自分の中でもう一度、調べて、自分の中でもう一度考えていただきたい。

 大きな声を出せない。孤立するから。それは仕方ないのかもしれない。でも今このようにね、鉄道公共交通の現実にNOを示した日本人の皆さんは、鉄道を嫌っているわけじゃないんですよ。憎悪をぶつけているんじゃないですよ。

 それぞれに憂いがあって、憤りがあって、いろいろな合間をぬって皆さん声を上げていて、そして『公共の財産を壊すな』と、『公共交通を返してくれ』と、当たり前のことしか言っていないんですよ。

 ただのワガママで言っているんじゃないんですよ。この現実を、この場所を離れた時にもう一度調べていただきたい。旅客鉄道とはどういう存在だったのか。九州は、関東は、そういうことを鉄道好きの皆さんにも。

 

そして、私鉄の皆さん。社員や利用者や経営者に元気さがないですよね、おそらく。首を洗って待っているでしょう?もう私鉄空間で起こるトラブルや自動車・バイクなどの道路共同体による鉄道いじめでさえも、社会問題のサンドバックにされているんですよ。公憤をぶつける道具として。そのような社会がまかり通っているんです。

 だとすれば、大都会の繁華街沿いの幹線道路に健全な高校生さえも自転車やバイクを使うに決まっているじゃないですか。恩恵を恩恵とも思わない、感謝を認めることさえしない。逆にお互いの憎悪を煽る、そのような社会を政治空間が象徴している。それは世界から見る日本人の民度の低さからも見えることなんですよ。

 もう一度この鉄道を離れた時に、この公共交通のあり方、自分の中で調べて、深めてくれませんか?ただ単にこの場に来て、なんとなく趣味で鉄道を愛しているって、こんな馬鹿な話ないですよ。

 私たちがこうして向き合って、ののしったりののしられたりっていうところに、何も意味がなかったら、これほど悲しいことはない。一体、どのような意図があってこのように敵対させられているのかということを、自分の中でもう一度見つめなおしていただきたい。

 本当に鉄道公共交通の栄光を奪還する、都会人として自分たちの意志をもって何事でもものごとを決めていけるっていう、当たり前のところにいきつくためには、ここの記事の読者以外の皆さんにも、外国人の皆さんにも、大学生・大学院生の皆さんにも考えていただかなければならないんです。不幸に鉄道を嫌ってしまった皆さんにも。力を貸していただきたい

 

そして、鉄道以外に関しても言えますが、『そろそろ日本は変わる』。これが証明される日が必ずくるんですよ。必ずくる。どうしてか?多くの人が気づき始めているから。

 今まで日本の外に出なかった情報が、今はもうネットで、大きく世界(翻訳すればの話だが)に伝わっているから。だから皆さん、全世界に注目されていますよ。都会にいる東京メトロ利用者の皆さん。都営でこの地下鉄を回せると思いませんか?

 東京都民の皆さん、そうでない皆さん、『どうして田舎や都会も味噌も糞も一緒にして民間に公共サービスを投げ出すのか』と思いません?財政の豊かな都会の交通は公営中心で回せると思いません?金銭的にOKでしょ?でもどうして民間にゆだねているのか。今、公共があまりにもデタラメすぎて、公共の財産を脅かしながら、自分たちが喜んでいる。

 良識のない日本人と鉄道好きと良識のない財界と良識のない政界、これ一体なんですよ。これいつか破綻するんですね。その中身がバレた時に爆発するのは誰か?その公共交通を使っている人々ですよ。その時にいつでも公共交通を捨てられる準備をさせようとしているのがまさに2012年の大事件ですよ、皆さん。

 大学生ならともかく高校生がバイクを使うような旅はしないでしょ?何で今時バイク所持を完全許可したの?鉄道好きの社会が気に入らないの?それとも日本人は金持ちがバブル期以降急増したの?貧困問題は貧困の絶対数の問題ではなく貧富の格差の問題??まさか免許代無料にして貧乏人まで車社会に引き込みたいのか???

 この国の鉄道公共交通は破綻に向かっていっているんです。はっきり言ってそうです。その破綻を迎えた時に、この鉄道に生きる人々の不満が爆発する。そのときの準備を今、皆さんがさせられているんですよ。じゃなかったらなんでPTAや高校まで動かして、バイク所持を完全に認めるのか?考えていただきたいんです。鉄道好きの皆さんにも。私鉄にかかわる皆さんにも、バイクを持ってしまった高校生の皆さんにも。

 公共を食い物にする、そして公共の空間を民間の玩具にするような、目先の利益や幸福によって公共がどんどん壊されていっている現実がある。それを深めていただきたい。今日ここにブログを書いたのは憎悪をぶつけたかったわけでもなんでもなく、それを考える機会を、特にバイク完全許可に踊らされてしまった皆さんと今の鉄道公共交通の目を背けたくなる現実が与えてくださったと、そういうふうに私は思っています。

 …お話しがまとまりませんけれども、家に鉄道ファンからのオフ会の手紙が来たようです。陰湿に虐められたいのですか?

 どこまで夢想に魘されたとしても、必ず目覚める日がきます。九州も関東も、全国の人が、世界中の人が、今、この国でまかり通っている資本の奔放を見続けている。そしてバイク3ない運動の瑣末や日本における道路交通旋風から、全国や全世界の人たちが学んでいるんですよ

greatchina2の鉄道好きの本当の理由

>なんで、お宅は今時車アレルギーなのでしょうか。
家族と私の社会の無関心以上に、ネオリベが執拗に鉄道好きに対して圧力や嫌がらせを行い続けたためです。妹のバイク利用と家族の車嫌いは反戦分子潰しという家族のネオリベに対する絶対許さないという強い意思表示でもありました。

 

環境が100%の原因です。
私の家族の場合は拒否で、最後の最後までがんばっていました
自転車とバイクまでの踏みとどまりは評価されます
最大の原因は一部の戦争参加現実論者による鉄道好きへの誤った知識による批判です
戦争の障害だのは過去の間違った考えでそんなことはまったくありません

実際韓国では高架化や地下化などで対応しましたが日本ではまったくの逆でした

そればかりか日本国民の戦争準備反対の要望を無視してきました

ほかにも環境対策の進行を妨げるなど戦争する側に気に入らないものを目の敵としてました
さらには賛成派も見習って運転免許の取得の推進などしてきました
結果私の家族のうち妹が音を上げたと言った感じでしょう
公共交通がここまでいい加減になった原因は日本国民の時代錯誤な考えと戦争問題に対するの関心のなさが大きい理由です
ちなみに今の与党の背後に私鉄という大きな応援団があると言われています
しかし戦争準備を推進(自覚はないにしても)する馬鹿さ加減にはあきれる
そんな馬鹿なことを云わないほうがここまで自民公明が嫌われなかったのに

 

安保法制成立の原因は国民の無理解です。

「まるで外国が鬱陶しいので対抗する」
昭和時代の考え方です。
そもそもここまで酷くなった原因は外交の失敗なのです。

慰安婦問題に限ってみれば韓国では日本の意見を見直す動きが広がっています。
韓国のとある新聞でも、「慰安婦問題は信憑性のあるかどうかわからない」「この問題はおかしい」という記事が書かれていました。
他にも日本各地で、具体性や進捗状況に差はありますが、日本の野党を見直す動きが多くあります。

もう少し時間が経てば、日本国民も戦争に備えたことが失敗だったと気づくでしょう。

バスVS鉄道 街をにぎわす超距離交通たち

私の事務所は格安高速バスの駅で、家から長距離列車の駅をとおって通勤している。
そこで、バス停に来るバスと新幹線や私鉄に来る列車の違いを比較して観察すると面白い。
バスの方は本当に外国にいるかのようで気持ちいい。
バスによって様々なサービスがあるので、乗客たちはみないかにも嬉しそう。
私から見ても完璧にかっこよくきまっているバスが出没するので、楽しい街であることは間違いない。
特に多客時は、停留所付近自体もターミナルのようである。

しかし、気が付いたのは、高速バス停留所で現れるバスたちが、誰から見ても好感がもてるようなサービス・ダイヤにすごく厳密に計算されていて、画一的に規格化されていること。
特に、外国人がこうあってほしい、と思う願望をそのまま切り取ったようなバス趣味に出てくる素敵な乗り物なのだ。
バスは自分の意思で利用してるのではなく、プロデュースする人間が、客の目から見て良く見えるスタイルを綿密に計算し、乗客のニーズや美意識からみて完璧なスタイルを決定し、バスを走らせている。
プロデュースする側が綿密にニーズを計算した結果の成功なのだ。
それに引き換えると、長距離列車の車両、通勤鉄道車両、近郊列車はどうだろうか。
詳細に描写するのは控えたいけれど、以前の寝台特急・客車列車やら、自己流の観光列車、けばけばしい内装や外観など、みんながまゆをひそめるような車両を見かける。外国人からも好かれないだろうし、日本人に好かれるとも思われない。
これらは自分たち鉄道会社などのためによかれと思って、自らのプロデュースでこうしている。
抑えきれない欲望、自意識と自己顕示欲、私は私という意識が列車たちをしてそのように装わせているのであろう。
私も大学生まではよく列車のお世話になっていたが、しがらみにがんじがらめのバイクでは自己を解放できない。
長い休みの日に長距離列車の駅にきて、普段はなりをひそめている本当の自分を解放するのだ。
その意味で、鉄道ファンたちは他人の戦略ではなく、自己の決定で、テリブルではあるが、楽しんでいる。
だから、感じがよいのは圧倒的に道路を走るバスや自動車や飛行機や船だけれど、人為的なこれらより、駅や鉄道線などにいてまゆをひそめてしまうような列車たちも応援したくなる。

ある種、ジェンダーな問題ですよね。

市民や公の戦略に乗っかって従順に従い、民間が成功するとしても、それは本当の成功といえるのか。
自らの戦略で突っ走り、四面楚歌になって失敗しても、民間が自力で立ち直って傷つきながら自分の道をごまかさずに進んでいくほうが幸福なのか。
とはいえ、多くの民間は現代社会において、みんなに受け入れられつつ、賢く自分を追及していこうとするものなので、決して二者対立ではないことが多い。
バスや自動車やバイクたちも、商品として演じているわけだしね。

心配なのは、バスや車社会やバイク社会の市民たち。
道路に出てくるような美しい均一的なバスや車やバイクをこよなく愛しているけれど、本当の交通機関の姿は、バスのように均一的ではなく、鉄道のようにひとりひとり違う。
自分の意思で装ったり行動すれば、市民たちの願望通りにはいかない。
あのバス社会の市民間で増幅されている、日本離れしたバスたちに対する幻想が、多くの日本人をリアルな公共交通から遠ざけているように思えてならない。

そろそろ専門学校を大学・短大で淘汰しようではないか

教育 社会問題 オピニオン

最近日本ではグローバリズム構造改革賛成デモが起きたばかりだそうだが、これ、コケる気しかしないんだよ。だって、支持できる日本人が一人もないんだよ。少なくとも成功している国にありがちな存在意義を獲得することはできないだろう。

日本は若者の大学進学率の80%超えを目指しているけど、そもそも日本の大半の大学のルーツって旧制専門学校じゃないか。東京電機大学も、戦前はそうだった。専門学校の大半を大学に移行できなければ教育を近代化させる意味がないと思うんだけどね。

私が大好きな韓国や台湾や中国のそれも、専門学校を大学に置き換えて、大学の絶対数を増やして、それでやっと成り立っているんじゃないかと思う。日本はその点ワンテンポ遅いのではないか。

実際統計で見れば、大学進学動機は就職より専門的技能や社会人スキルを身に付けるための性質が強い。経済の成熟の関係なのかもしれないが、高学歴化政策に必要な学校整備は単純にFラン校を増やすんではなく、専門学校を置き換えるべきだったんじゃないか。まあそれでも失敗すると思うけどね。

統計を見ると、現代でも専門学校進学はそこそこいるが、例えば情報学を学ぼうとして考えるくらいならまず大学進学、そうでなくても短大進学だろう。大学もピンキリである現在、今時専門学校に人が集まるだろうか。

更に云えば、日本語の辞書などでは専門学校卒と短大卒が低学歴と高学歴の境界線らしいが、学力だけ考えればはっきり言って大差もないし、短大のレベルは大学よりも少し劣り気味だし、そもそも短大・専門学校進学希望者がそこそこいるとは思わないんだが、現状維持でうまくいくと考えているんだろうか。

神奈川県横浜市旭区に○山○記の母校があるのだが、あの短大は一度行ったことあるが、存続に必死な感じがした。衰退期の専門学校みたいなもの。もちろん専卒よりは学歴の価値が高く、教育も充実しているが学費が安いだけではうまくいかないのだ。

特に社会的に成熟している地域においては、ニーズの見込めない専門学校は「淘汰」が重要ではないか。アメリカにおいてそこそこの専門学校を成り立たせているのは、そもそも大学の敷居が高くて底辺層の進学率に難があるから。だが日本や韓国の場合、大学の敷居が低く、名前を書けば入れる大学さえある。

日本は世界屈指の、普段後進国とする停滞国、今の成熟途上国の代表格の1つだが、大学や短大の普遍性に打ち勝つことが専門学校にできないようなら、存続させる価値もないし衰退するしかないだろう。

自称左派に非難されているJR九州から我々が学べること

 日本帝國主義体JR北海道が異常事態に陥っています。経営困難が多数発覚して次々に鉄道の運行を減便したことでバスの利用を強いられる事態に追い込まれた事実も発覚しました。関東私鉄やJR東海に対しても公共交通のあり方を巡って住民による不買運動に発展していたり、自称鉄道ファンが反社会勢力との交際をしていたりとか、権力を持てば何でもやれるというところに人間というものが堕落してしまうものだということをまざまざと見せつけています。そして、バレたらウソをつき通して逃げ切りを図ろうというのは、豊洲市場移転をめぐってインチキ施設を作っていたことが発覚しての元日本帝國主義体東京都知事石原慎太郎逆徒の態度にも現れています。人民の財産を権力や資本側の利権として食い物にしたり、最悪の場合は共謀罪による副作用や1億総車社会市民政策のような人民圧殺政策に投入したり、そのような社会システムの根本から転覆させない限りこの社会全体が人権に見合った存在になるはずはありません。

 さて、九州地方のある私鉄が自公帝国主義政権に協力していたなどという理由でバッシングを受けているようです。JR九州が2013年に観光列車の運行開始をしたことについて西側帝國主義自称左派勢力が公共交通に対する冒涜だとかの言いがかりをつけて鉄道ファンまで巻き込んでの糾弾扇動をしているのに、一権力が乗ってしまったということです。一方で日本帝國主義体制は国際化多文化社会化を目的として、高校生へのバイク制限は廃止にするものの反モータリゼーション政策自体は継続するとの姿勢を崩しません。こんな態度では国際社会はますます対日本帝國社会不信感を強めるに決まっています。
 ところで、今回批判対象になった鉄道会社(以下JR九州)が長年にわたって自公政権との友好関係を深めていたことも知られています。その発端は、日本で車社会化が進行しつつある時期にあり、多くの人民が鉄道の利用を手控えようとするムードがはびこるのを逆にチャンスと捉えて鉄道の再生をしてきたということです。企業や一般人まで自公シンパ勢力を完全に撲滅するのは難しいとしたものですし、JR九州には利用者の生活もかかっていますので、例えばとあるJRが反社会勢力に掌握されたとしてその鉄道ユーザーまでもを犯罪支援勢力だと決めつけてしまうと社会そのものが批判の矢面に立たされるだけです。このJR九州以外にも、日本国内には政治勢力と活発な交流をしている企業は多く、これらの企業が社会的制裁の穴になっているという指摘はよくされています。
 社会全体であるとか、政治勢力などの組織による制裁が行われた場合、多くはその制裁を正当なものとして受け止めて従います。しかし、中には当然のことながら制裁を不当なものと捉えて、制裁の意思に反する行動をとるような勢力も出るものです。そして、その制裁の意思に反する行動をとる組織や個人が少しでもいると、大多数による制裁の意思が完全に破綻するという状況も起こりえます。今回のケースでは自称左派勢力をはじめとする日本社会全体でJR九州に制裁を加えようとしたのに、一部の組織がむしろ利益を生み出すチャンスと見てJR九州との交流を拡大させようと画策したということになります。これがただ単に一部の個人や組織が自らの利益を貪る目的だったとするならば相応の批判に晒されるのでしょうが、制裁の正統性の方に問題が大きいとするならば、むしろこの種の個人や組織は自らの信念に基づき活動を拡大させて当然というものです。
 日本帝國主義社会の場合、公共交通を目的としない旅客鉄道は「政治的正当性(PC)」云々問題により法的には「表向きは」完全に禁じられています。そして、法律やPCの穴を潜り抜けてこういった観光鉄道の利用をしようとした場合にネックになるのは、非公共交通的鉄道及び観光列車を日本国内で運行しようとすると非難圧力が相当かかることです。その意味では、JR九州の観光鉄道を鉄道再生の手段とするとなれば相当なハードルの高さは覚悟しなければならないでしょう。とはいえ、「自称左派を中心とした自称良心的勢力が反PC的公共交通勢力に非難を働いている」情勢が逆にチャンスになりうるのは、今回批判されたJR九州が示唆しているということはいえるのです。