ボンダイ(ボンK日報)

あれやこれや

私の現在の立ち位置

高山直人にとってアキバ文化は人生の基礎のような存在であり、自身は「現代の大衆文化の省庁」「都市型文化都市のスタイルを固めた地域」などと語っている。2001年冬に高山はアキバ文化と出会い、その技法を学び取ったことは、彼のネット活動スタイルに劇的な変化をもたらしたとされる。その一方、アキバ系は当時の高山直人について「最初はおとなしくて臆病な男だった」「僕の空間におそるおそるという感じで接近していたが、ぼけぇっと突っ立っているだけだった」と語っている。このような高山とアキバ文化の関係が崩れたのには2つの理由があった。以下は高山の手記による。
一つ目は、2012年衆議院選挙でのサブカル消費者の態度にあった。街宣場所でマスコミとトラブルになり、一時期大混乱になった。高山はこれは政治集会でありサブカル大会ではないことから、その区別をきちんとするように彼らに訴えたが聞き入れられず、路線の違いが露わになった。
また、秋葉原や相模原での連続殺傷事件の際、ネット上にある事件を中傷するコメントが掲載されていたこともあった。高山は政治集会や連続殺傷事件におけるネットユーザーやサブカル消費者の態度が現在の状況に繋がったとし、彼らもきちんと反省すべきと主張している。
二つ目は、偶然顔見知りになった秋葉原のとあるオタクが宗教団体と関係を持っていたことであり、高山はネット上の件よりもより悪質だと主張している。高山は相模原での連続殺傷事件が発生する前、秋葉原で高山にどうしても会ってほしいと紹介された人物に会い、紹介されたときは名刺も何もなかったので普通の人かと思ったが、言動が普通の人間と違うので怪しいと思った。高山が新興宗教関係に詳しい家族に名前を調査させたところ、その人物は以前社会問題となっていた宗教団体の地域役員であったという。高山は日本社会における宗教団体への締め付けが近年とても厳しくなり、そのために新たな人財として一般人を利用しようと考え、サブカル社会人の中でもコンテンツ生産者の卵と接触を図ろうとしたのではないかと推測した。
高山はこの事実を知ったのち、携帯電話を受信・着信拒否にしていることを知った、そのオタクが「貴方は私と彼を捨て駒にしましたね」という言葉を暗示しているのを察し、そうなるのは当たり前だったとしている。また、サブカル社会人まして生産者を名乗る者が宗教団体と付き合うのは非常に問題であるとし、上記の問題による路線の違いもあってこれ以降アキバには踏み入れていない。その反面、高山は何が彼らを狂わせたのかと残念がった。

現実問題としてシステムの終焉を考える

鉄道交通の変革がどうも1ステージ上に上がった気がする。D&Sの賛否の件と言い。ここまで厳しい意見は以前はなかった。

この手の意見があると、一般人は鉄道ヘイトをむき出しにするものだ。お前はもう詰んでいるんだから無駄な抵抗は諦めろと、そういう冷笑ね。でも、よくよく客観的立場に立って考えると、本当に必死なのは、彼らなんじゃないか。

たかが1つの産業。それも日本唯一の産業で、規模もバス会社などと他と比べ極めて小さい産業に対し、一般人がここまで必死になるのは、どうも常軌を逸していると思う。あの逆ギレも、ありえなかった。

 

JRは29年前に国の支配から脱却した経験がある。当時の国鉄は現在のJRよりも遥かに「いかつい存在」だった。しかし、ひるむことなく民ぐるみの抵抗をしたから、今日本のJRは民に帰属している。その国が道路交通をさらに増やそうとしている現実があるのだ。

本当は、公共よりも私企業の方がタフな存在なんじゃないか。今、交通機関権力を掌握しているJRだって、以前は公営だった。車社会で無残なほどにまで敗北して民営に転向したのは昨日のことである。それらは、何より田舎者が一番わかっているのではないか。

どうも私企業・鉄道の敗北よりも公共交通の終焉ということの方が現実として起こる可能性が高いのではないかと思う。2016年の日本人のうち、国鉄の終焉体験の記憶があるのは、40代以上の人とJRユーザーだけである。若手の国民は公共交通の終焉などあり得ないと思っている。

 

しかし、JRの歴史は29年程度しかない。その前の国鉄は1949年に設立され1987年に民営化と言う形で日本人によって倒された。一部日本人はJRは公共交通であると思い込んでいるが根拠となるのは多くの学者が実態を疑うJR会社法しかない。

国鉄が38年程度の寿命だったら、新生JRもその位すれば崩壊するんじゃないか。あるいは、それよりも早くに終焉を迎えるんじゃないか。ということは、JR北海道関連のTwitterにおける「JR北海道の終焉」と言う表現を聴いた時、ふとよぎってしまった。

日本国の傀儡企業であるJRが未来永劫続くと思った鉄道オタクは多分そんなにいなかったのではないかと思う。おそらくそういうドライな見立てが、今は日本に向かれていて、JR九州は、公共サービスの尊重を半ばあきらめ、ビジネス単位で動き回っているんじゃないか。

地方都市を中心に鉄道を見ると、新しい街が近所にあることに気づく。そしてその大半が、近代史だけをみても終焉経験のある新しい地域だ。仙台や福岡は国鉄が倒れた後に都市化が加速しているし、名古屋のように交通構造が大きく変わった地域もとにかく多い。

古い機関が、システムが旧態依然となって、硬直化し、保身に走り、利権ばかり作り、それと密接な集団も既得権にばかり蝕まれて、そういうがんじがらめになって自滅するだけなのに対し、新しいそれほど、新しい秩序を起こし、発展させたり、いい意味での競争や支援環境が充実しているように見える。

 

たとえばアニメというサブカルは、いまや日本最大の先進的なマスカルであり、世界に通用する文化だ。日本のアニメとドラマを比べると次元の違いに圧倒されるのだが、電車男というドラマが発表された2005年がまさにその爆発期だった。

中高年に話を聞けば、20世紀前、いや2000年代前半さえアニメがこうなるとは思わなかったという。40代や50代の若い頃はドラマの最盛期で、バブル崩壊後も需要があったから、しょうがない。下手すりゃいまだ下に見ている人が40代以上には少なくないかもしれぬない。

だからこそムキになって自慰行為みたいなのに明け暮れるサブカルアンチがあるのだろうが、しかし、考えてみればゲームでさえ、これほどスポーツに適した存在になれたのは、やっぱり韓国が日本のゲームを改良できたからではないか。

 

とはいえ、このところふとよぎるのが、日本の中間層はおろか新興富裕層さえ劣化しているような気がするということだ。ブラック企業やマフィアをめぐるあれやこれやは日本の持つ側の民度が一気に落ちぶれている結果ではないか。安倍首相もトランプ氏もまさに持つ層出身で、テレビ番組でも人気だった。

で、日本やアメリカの中で「社会主義共産主義復活論」がにわかに高まっているというのは、もしかしたら資本主義の終焉を予期した人たちの生存本能的な選択ではないか。貧乏人よりどっちかと言うと金持ちやエリート層にその傾向があるというのは、やっぱりその発想の方が正しいのではないか、と思う。

凄く陳腐なたとえだがこれ自体日本人もなんべんも引用してきたものだが「民間人による社会の監視」だって、実際に機能したのは幕末期や第二次世界大戦後など非常時のわずかな期間だった。で、やがて混乱が収まり正常化すると、官と民の関係が一気にひっくり返った訳で、こういう風に考えると日本の犯罪組織もそろそろ終わる気がする。最近警察による犯罪組織や過激派への締め付けが以前に増して厳しいのも、社会や権力が正常化して彼らが用済みになったからではないのかと思う。

ここ最近、おもしろいと思うサブカルに、鉄道ではなく車で表現したものが多い。テーマがとがっていて、見所が新鮮である若者向けほどその傾向がないか。で、具体的にいうと、たとえばばくおん!!である。子どもの頃流行った頭文字D湾岸ミッドナイトも車だ。

ここ1年程度のサブカルをはじめとするコンテンツは「サブカル文化」ではありながら非サブカルに踏み込んだりすることが本当に多い。民間を中心に広い世界各文化の寄せ集めになっていて、最近のアニメはモータリゼーション推しが激しいものが多い。

そのモータリゼーションを罵っているのが鉄道会社というのもどうも引っかかるし、現在人気が復活しているのがモータリゼーションというのも、なんだか反作用ぽいものを感じるのである。

 

大企業が経営破たんすると下請けもあおりをうけて潰れるように(もしくは逆に末端から潰れて本体が陥落するように)、サブカル秩序や鉄道が日本の天皇制と裏社会のように共倒れする可能性と言うのが2016年には存在するんじゃないか。その両者から強烈な支配を受けている古い社会構造の最後の最前線が、日本の私鉄だ。

ネトウヨに限らないネット原住民全般のシニシストの傾向として、私鉄を冷笑しながら「日本は大丈夫だから安心しろ」てな感じの愛撫というか"負の自己弁護"をする人が多く居て、そういう人は最近の政治家を過激な言動をくさすことなく普通の政治家として評価しつつ、大抵、PC崩壊危機論に流されている。

そういう連中の何割かはおそらく底辺の自覚もない人たちなんだろうが、知性もはつらつとした覇気も全く感じない彼らの異口同音の主張によって道連れにされたいだろうか。

私もまだ30代だから今後の人生があるので、腐敗した人たちのように「私鉄と共に死ぬ」つもりはないし、私鉄が滅んでも生き延びるはずだし、もしもできれば私鉄を殺すことなく21世紀らしい形にアップデートさせて子や孫につなげたいつもりがあるのだが、そのために重要なことの一つがマス・トランス・ラピッドへの理解ではないか。

 

日本の鉄道がかつて持っていた「近代化した高度な公共交通」のポジションは、私鉄がなくなっても、市民を介して公的機関や外資の連携で実現できるし(すでにかなりそうなってるかもしれない)私鉄がなくなっても道路や都市鉄道やJRとかで分散すればいい。

経営主体が地下社会であれ公権力であれ公共交通であれば、鉄道は鉄道だったわけで、鉄道オタクや地元民は地元のシンボルを失うわけではない。仮にJRが別の運営主体になっても、山手線は山手線、銀座線は銀座線だ。つまり、帰属社会の喪失にはあたらない。誇れるほどのシンボルを持たない怠惰なものは別だが。

ネトウヨの皆さんにあえてフォローしてあげるとすると、この日本には創業100年を超える老舗企業はごろごろある。つまり「日本すごい」だ。江戸時代から続く国なら2回ほど国家の終焉を経験しているわけだが、会社が絶えることはなかった。例え日本が消えても地元は残るし、社員や勤務先を失うわけではないのだ。

江戸幕府が滅び、第二次世界大戦後が終わったからこそ日本の治安維持は自警団と裏社会から平時と同レベルのマトモな警察・軍隊組織に復帰できたし、日本の昭和ビデオでよく日本人暴走族が乗っているバイクを売っていたそのメーカーは、現在世界各地で静粛性・環境に優れたバイクを販売しているじゃないか。

つまり、国家のその先に希望を見出した方が、20世紀の古い因習まみれでマンネリで何年経っても変わり映えせず悪くなるだけの「負の日本的現実」と共に心中するよりはるかに建設的発想だし、なにより未来がある。ということを私は声を大にして言いたい。

鉄道は魅力ない文化・オワコンか?

とあるネットユーザーが調査した、好きなカルチャーのランキングで、鉄道は最下位になったというニュースがネット空間に流れた。
このランキングによると、最も魅力の低い文化は鉄道で、ブービーがスポーツだという。

ところが誰も触れていないのが不思議だが、このアンケートはインターネットによるもので、しかも対象となるカルチャーが、映画ドラマ・アニメ漫画小説・鉄道・自動車バイク・DIY・スポーツ・ネット・雑誌の8つ限定なのである。

このう自動車バイク・DIY・映画ドラマはもとより王道であるし、映画ドラマ・アニメはマスカルだ。
ネット・雑誌・小説はメディアであるが、自動車バイクは世界共通の文化である上に、対象となるものが広い。今流行の萌えは自動車・バイクであるが、イメージ的にはアニメ漫画小説だろう。
こうしてみると、下位ふたつを争うのはスポーツと鉄道になることは、その前からわかっていることだ。

それにサブカルクラスを比較するのなら、当然、ゲーム・ショッピングも対象にするべきであろう。これらを含めれば、想像ではあるが、鉄道は中位にランクされることになるだろう。

ひとつ謎なのは、この調査はネット原住民空間が行ったことだ。鉄道より文化知名度が高いものを揃えて比べれば下位になるのはわかりきったことなのに、わざわざこんな自虐的なランキングを作る意味が不明だ。アンケート実施者はショックを受けているというが、初めから最下位になるようなランキングを作成しておいて何を言っているのだろう? 
最近の鉄道は公共交通性を削ってまで、大金と時間かけて観光鉄道の整備をしたいなどと言っているのだ。思惑でもあるのかと勘ぐってもしまう。

実は鉄道は文化面においては非常に魅力のあるものだ。このイメージの悪い日本で、鉄道を訪れるたびに、サブカル的列車がどんどん増えていくのを見るにつれてその発展のスピードに驚かされるばかりだ。
しばしばネタにされる「JR九州のD&S列車」も、クルーズトレインを運航する段階になり、そのアングラ臭いネーミングとはまったく異質の超近代的なカルチャーに変わっていた。
JRの他にも、私鉄に目を向けると、非常に活気のある列車も多く、一時期ほどの魅力のないテレビドラマのイメージからは程遠い。鉄道の文化の賑わいは、消費者人口で大きく上回る自動車バイクよりも上に感じる。
そして日本各地には鉄道博物館などがあり、来年にはJR西日本でクルーズトレインが開業する。

ただ鉄道というイメージが頭の中で形作りにくいカルチャーであることは言えるだろう。だがその「とっつきにくさ」を越えれば、鉄道という文化は、楽しむには十分な魅力のあるものだと言える。

好かれる自動車・バイクと嫌われる鉄道

最近、車やバイクが登場する作品がヒットしている。私は自動車アンチだが、自動車・バイク好きというコミュニティには好感を持っていた。というのも自動車・バイク好きには社会愛があふれ、しかも個人が社会人という市民意識を背負っているという現実があるからだ。

明確な総本山を持たない自動車・バイクは、長い間「迷惑集団」としての悲哀を味わい続けてきた。
自動車・バイクコミュニティ自前でメンバーを育てることの上手なグループだ。いつ入会したかも覚えていない無名な人が、的確な指導法のもとでやがて一流の選手となる。
だがそこは技術水準の悲しいさだめ、公害が発生し、社会はそのコストを払えなくなって排斥せざるを得ないという状態が続いていた。

その悲しい連鎖が1982年の高校生の脱バイク運動、相次ぐ技術スキャンダルという評判の悪化に繋がった。しかし裏事情がいわゆるドングリの背比べ状態になってから氷菓は向上した。

自動車・バイク好きというコミュニティが市民に好かれていることは近年のTwitter空間を見てもわかる。アニメ空間ではファンタジー作品に疲れてジャンルを変えたのではない。ファンタジーで大成功を収めつつ、伝説化を断ってまで、愛するそのコミュニティに戻ってきたのである。

私は自動車・バイクを「大人の優等生」という印象を持っていたので、一時期かなり嫌われていた事実をともすれば忘れかけていた。
そこでこんな表現は大人に情けをかけるように感じられるかも知れないが「今年は自動車・バイクを祭り上げてやろうじゃないか」という気持ちになっていたのである。

 

一方、対照的なのが鉄道界隈である。今年も現在のところ低評価だが、ほんの2年前までは人気争いの常連でもあった。2000年代中盤か10年代初頭にまでは「アニメ・ドラマは鉄道天国」とも言えるほど強かったのである。
それがわずか数年で日陰者の掃き溜めを作りそうな悪評コミュニティになってしまった。

つい最近のことだが、それまで元オタクサークルの顔として活躍してきた私が除籍された。理由は自動車嫌いという常識外れな趣味に怒りを爆発させたためだ。趣味の問題ではなく「そんなに社会を甘く見ているのか」という怒りである。

鉄道は日本最大のサブカルチャーとも思ってきたので、この私に対する扱いには驚かされた。

その後も鉄道好きに対する冷遇は目を覆いたくなるものがあり、私の旧友の家族が離婚した理由に過度の鉄道好きというのが取り上げられ、もはや鉄道は社会の害悪かというほど評判は悪化した。
昨年の大学の同窓会でもオタク趣味を聞かれて「鉄道だけは勘弁して下さい」と屈辱的なコメントをされるほどの立場になってしまったのだ。この発言元は不明だが、流言や都市伝説のたぐいではなく、存在したことは確かである。

こうしてみると、文化というものは、そこに属する者に好かれるかどうかによって、まったく実績が変わっていくことがわかる。「人は社会現象として文化を例えに出すのが好きだ」と皮肉られたりもするが、確かに現在の自動車・バイクと鉄道の状態は、社会のあり方というものを考えるにはうってつけのものと言える。

「私鉄天国」や「爆音珍走団」はアメリカで成り立つのか

■私鉄天国はアメリカでは成り立たないだろう

ここ最近のこと。私鉄がサブカルとしては珍しく面白い。ところで、この文化はアメリカでも成り立つのだろうか?

そもそも私鉄vs私鉄と言う構造自体が日本独自のもので、外国においては過去約10年くらいヨーロッパなどに似たビジネスを広げる動きはあるが、アメリカには現在そんな事例がない。鉄道は殆ど公営で、主な競合相手は飛行機やバスである。

たとえばアメリカの東海岸の一部の地下鉄線と郊外電車とは競合関係っぽいのだが、実際に客を奪い合っている感じはなさそう。鉄道の公営化や道路第一主義を徹底した国らしい。日本が緩すぎるのだろうか。

また日本の場合、土着資本による私鉄が細々と散在しているモノだが、アメリカは大規模資本による私鉄が主流だった。一社だけで都市の優良納税企業になる場合も多い。土着資本が染み付きにくいという土地柄からか、日本の私鉄同士の競争を再現することは不可能だろう。

また、日本やヨーロッパの場合は、私有地と公共空間の境目があいまいであるため、私鉄同士が独自に線路を敷いて争ったり、公有の線路の上を私鉄線同士が競争したりすることもある。だがアメリカは公共物の所有概念を徹底しておるため、グローバル資本だろうと正当な理由なしで私鉄同士の競合を正当化すれば投獄や殺害される可能性がある。

そもそも合理的とはいえ公共サービスを民営化させて会社同士で争う発想は、アメリカ国民的には非常にあり得ないことだろうから、仮に要らない公営鉄道を民営化させてそれでバスなどと競争しても、商売が成り立たないんじゃないか。

新自由主義というと、年金でギャンブルしたり、無謀な投資をするなど、YouTube当りでもやってそうな題材がたくさんあるのだが、その中で唯一外国で再現不可能なのがこの「私鉄天国」かもしれない。逆に「サブカル」とかはアメリカに売り込んだらウケるはず。

■爆音珍走団はアメリカではウケないだろう。

アメリカでは日本の爆音珍走団みたいなサブカルも成り立たないと思う。いろいろな日本のサブカルの外国版が誕生しているが、こればかりは日本でしか見かけない。

バイクオタクが不自然な車両にバイクや車を改造し、不自然な運転で悪ふざけをするという発想は、車社会の成熟していない日本だから成り立つものだと思う。アメリカ的には車もバイクも生活必需品としか見ていない。学校も鉄道の駅からかなりはなれたところにあるのが多い。

名もない若者が不良グループを形成するには、せいぜいサークル程度が限界で、それより拡大しても半グレになるくらい。もしそのサークルが日系人によるものなら話は別だが・・・

日本の珍走団はよくマフィアが介入することがあるが、それは日本にしかない習慣だ。珍走団から反社会的要素を抜いた旧車会みたいなものもなく、これらに代替できる要素は多分アメリカには見当たらないのではないか。

そもそも珍走団のキモであり、日本の都市の定番である郊外電車文化自体がアメリカでは成熟していないものだ。民営の通勤鉄道もない。アメリカ人にとって公共交通はそもそもみんなお上からの賜物で、みんなありがたく使うものである。

爆音珍走団を扱った漫画やアニメではツーリングやドライブの目的地としてランドマーク施設を描いているが。この手に限らず日本のデートものにおいてランドマーク施設の存在は情景描写の重要な要素だが、これさえ通じない。異文化ってこういうことだろう。

学校の偏差値もないし、サーキットで運転テクニックを披露したり?警察署にて解散式を開くことも多分ないと思う。日本の車社会にルーズで社会的に一途な国だからこそ、この露悪趣味的サブカルは成り立つのだ。

ただ、こうした日本式の異端サブカルが世界に通じないというわけではない。今で言う俺妹、昔の電車男はまさに、若者時代にその手の文化に関心を持っていた筆者が発表した作品だ。先輩方の一部は日本の爆音珍走団感覚でエロ本集めなどに明け暮れていたのだろう。

その電車男のオタク文化がアメリカを筆頭に全世界で人気が広まったこと。まさにサブカル文化さながらに、夏休みの暑い時期にもかかわらず現実空間でサブカル本を買う人が行列を作ってきたことを考えれば、露悪趣味発祥のサブカルの本質に普遍的魅力がないわけではない。うまく変換すれば広まることができる。

けいおん・ばくおんは萌え作品みたいな印象で広まったが、実は日常作品要素もある。話によってはライブやツーリングするストーリーもあり、また有る話では「爆音珍走団」性も兼ね備えている。

ところで俺妹・電車男けいおん・ばくおんはアメリカでも展開されていて、中でもけいおんではイギリス辺りに旅行するシーンがあるから、うまく試行錯誤すれば「爆音珍走団」もアメリカ版が発生しそうな気もする。

ただし、サブカル性を曲げることなく型枠をアメリカナイズした「爆音珍走団」が実現したとしても、それは純粋な若者軍団にはならないんじゃないか。たとえばその手を題材にした漫画や小説を書くとして便宜上、主人公を成金の家に住む人などにし、露悪趣味を楽しむバイクサークルとして登場させるならいけるかも。

■先進国と途上国の最大の違いが世界普遍性の有無

PCゲームの「TrainSimulator」を始めて遊んだ時、「これはBVEと全く同じじゃないか」と思ったのだった。違いがあるとすれば操作が複雑でリアルということ、脱線したりしてゲームオーバーになることがあることで、BVEより上出来であった。

だがこういう企画は都市鉄道(通勤電車や地下鉄など)が発達し、鉄道オタクも当たり前にいる環境ではなければ成り立たない。発展途上国に行けばオタクが嫌われると言うのはオタクなら常識である。どうも、先進国の都市ほどオタクへの寛容性があるんじゃないか。

鉄道経営を舞台にした「A列車で行こう」や今の深夜アニメに出てくる「ラブコメ」は、それなりの都会を舞台にするのならアメリカでもヨーロッパでも再現できる。きっと「ご当地ラブコメ」になろう。成熟した国を舞台にした番組やゲームなどは都会だろうと田舎だろうと関係がないが、発展途上国はそうはいかないのである。

コンテンツ表現において「先進国」の互換性は今後さらに高まるんじゃないか。たとえばこれまたマイナーだが「電車でD」といったファンタジー作品の舞台とか、そういうのが日本やアメリカやあるいはそれ以外の国で作られ、違う国にフォーマットが展開されることなどは盛んになりそうだ。

国家・都市の中における分離と、国家・都市を超越した先進国間の統合が進むようになると、コンテンツ表現の場所設定も分離され、たとえば世界で輸出展開することを前提としたアニメ―ションは最初から主人公の地元が先進国でなければならなくなるような「制約」を受けるようになるんではないか。

2000年代以降の世界の先進国のトレンドは一種のローカライゼーションであり、表面的に見ればその国柄やその地域性や都市柄の強化であるが、それは先進国基盤の世界的統合の結果であり、一見すると同じように日本製バイクの群れまがいが渋滞が多発する発展途上国こそ、孤立化が進んでいる可能性がある。

鉄道利用者の消費者意識の低さ

 はっきり言って、商業鉄道を公共交通にするのは間違っています。

 公共交通になるということは、非常時にはその地域としての輸送拠点にするということですよね。
 テロや戦争がもし起こったとき、運悪く空襲の被害にあった場合、横浜の地下鉄や大阪の地下鉄のような古い規格の路線の場合、まず、非常シェルター機能は望めません。

 ご存知ですか?各地に地下鉄が通っているのですが、大体の路線で非常シェルターとして使えるような深さに達していない路線が多数を占めるのです。
 その理由は、もともと路面電車の代替を想定しており、利便性の観点から深度を浅くせざるを得ないからです・・・・

 ちなみに、東日本大震災時に仙台の地下鉄の施設にいたのですが、駅の施設の柱などが幾つか折れてしまいました!その後の避難中の余震による転倒で私は怪我をしました・・・怖かった。

 何年か前に、大学の討論会で公共交通のあり方を検討する集会があったかと思うのですが、その検討員の間でも、地下鉄を戦争時の避難拠点にするには適切ではないとのコメントが出ていたような記憶があります。(定かでないけど)

 今からでも、遅くはないと信じて、災害・戦争・テロに強い公共交通・鉄道をどのように創っていこうか、鉄道ファンという消費者として強い危機感を持っています。

 でも、とりあえず今週末は、関東大震災の犠牲者を哀悼するため鉄道利用を控えます。

日本では不良集団は絶対に再発しないから安心するべき

日本では恐らくヤンキーは絶対に再発しないだろう。理由は、まずこの国のエリートは大変優秀であるために未然に防げるはずだからだ。発展途上国を例に挙げることもなく、アメリカのエリートは待遇がとても柄が悪いと言うが、日本では礼儀正しさの象徴である。腐敗も酷くない。なにより、長所がある。
これほど優秀なエリート組織があれば、不良はその「兆候」があれば未然に防げる。というか既に防いでる。
他にも理由はある。過去日本で不良事件といえば珍走団が定番だったが、その絶頂時期は1990年代以前。そしてチーマー事件のあった2004年頃を最後に日本社会そのものを揺るがすほどの主だった事例はない。平成以降の珍走団といえば旧○会や女暴走族のインパクトが強いが、これさえすでに前者は成熟後、後者は過去形のことだ。

左翼に限らず日本人の不良・マフィアは高齢化・減少しているし、珍走団もほとんど現存しない。過去5年目だった非行事件のなかった日本社会の道路シーンは、比較的健全であるといえる。2010年代になってからはアメリカで珍走団がらみの事件が相次いでいるが、日本はそれがおきうる地域でもない。完全に過去形である。

日本ではこういった事件が起きると大きく注目される流れがあるが、ギャングは私たちの同胞だけを狙っているわけではない。膨大な欧米人などに同じことをやっている。たまたま同胞が引っ掛かったにすぎない。非同胞が被害者になった時にもちゃんと言及するべきだろう。老害は気色悪い。

そもそもヤンキーというものの目的は、社会を迷惑や混乱に陥れることにある。つまり、何も行っていないのに、日本人の「一部」が国内での不良の危険性・可能性について必死になってああだこうだ論じ合っている時点で、ヘタレすぎるというか彼らの思惑にまんまと引っかかっているように見える。

神経質と言うか、心配性と言うか、こういうダメなヘタレ根性みたいなのは、「過剰反応社会」になり反知性主義の世代がひねり出した「ネット原住民」が跋扈するようになってよほどひどくなっている。こういう連中の存在の方が日本社会の質を貶める脅威ではないか。

つまり、日本では現状ヤンキーが起こり得る可能性が極めて少なく無に等しいのだから、最近のバイカー・車オタク諸君は堂々としていればいいのである。誰もそんなことに怯えなきゃいい。そんな中、エリートが立派に若者やオタクにまつわる関連コミュニティ、などにおいて不良予備軍の監視にあたっていればいい。そういう社会の方がよほど立派なのである。

オタク諸君は考えてほしい。日本におけるオタク文化関連はすべてが裏社会関連のトラブルがなく成功している。これがオタクの強みなわけである。その自負心を示せばいいのだ。冷笑のくせに過剰に心配がる連中の存在など無視せよ。